「倶舎論」をめぐって

 XX
江島博士は、このようにサンスクリット原典出版を喜びながらも、その不備を厳しく指摘している。では、当の原典出版者の発言は、どのようなものだったのだろうか?次に、それを見て見たい。
 現在、私の手元にあるプラダン本の第2版には、ハルダー(A.Haldar)女史の序文やイントロダクション、補遺が含まれている。編集統括者のタクル(A.Thakur)氏は、この間の事情をこう記している。
 偉大な賢者〔ラーフラ・サーンクリトヤーヤナ〕は、チベット訪問中に〔『倶舎論』の〕偈と注釈を発見した。…この書は、1967年に、プラダン教授により刊行され、当協会によって出版された。イントロダクションや何らかの補遺の必要性は痛いほど感じられたが、不幸にして、刊行者は種々の雑用のため、その責を全うし得なかった。それで、企画はハルダー博士に委ねられねばならなかった。(p.ix)
苦しい台所事情が綴られている。さて、ハルダー博士の序文を見てみよう。
 現書は『倶舎論』の偈と注釈の第2版である。オリジナルテキストは、学僧偉大な賢者ラーフラ・サーンクリトヤーヤナによって再構築された。彼は、閉ざされた国チベットから、かなりの重労働と勇気をもって、大量の仏教聖典テキストの写本をもたらした。そのうちのいくつかは、チベット訳と漢訳でのみ現存しているものであった。他のものは、インドで遠い昔、失われたサンスクリット語のものであった。ナーランダ僧院が焼失して以来、そして、仏教徒達が北インドで庇護を失って以来、多くの学僧が聖典を手に、インド以外の他国に消え去った。これが、その聖典が部分的にも残った理由である。…1966年に『倶舎論』が刊行されて、〔原典への〕渇望は癒された。それは、プラダン教授が細心の注意で解読したものであるが、テキストだけが収録されていて、解説もテキストの批判的分析も施されていなかった。(pp.xii-xiii)
そこで、ハルダー氏の登場となるのである。氏はテキストや著者へのコメントを170ペー
ジ余に渡って、詳細に行っている。特に気になる記述のみ紹介しておこう。ハルダー氏は、
ダルマについて、以下のように述べている。
 毘婆沙師の思想家によれば、ダルマは「要素」(elements)、「実在」(reals)を意味する。…それらダルマあるいは「実在」は、二ヤーヤ・ヴァイシェーシカの永遠なる「実体」(substaces)と理解すべきではない。それら「実在」はカント哲学の「物それ自体」と同じものではない。というのは、「物それ自体」は、単に、意識外(extramental)であるが、一方、それら「実在」は意識的でもあり、意識外でもある。それらは、現在の科学や数学の仮想的実在(Hypothical Reals)とかなり類似している。ダルマまたは「仮想的実在」は、あらゆる現実的現象の基礎としてある抽象概念といえるかもしれない。(pp.29-30)
ハルダー氏のダルマ観は、かなり興味深いものであるが、残念ながら、氏の見解が何に由来するのかまでは探れなかった。少し、勉強が進むとわかってくるが、ダルマは、仏教理解のための最大のキーワードである。しかし、その実態も謎である。過去もう100年以上も前に、パーリ文献を網羅的に調査した研究はある。だが、不思議なことに、『倶舎論』を逐一調査するというような綿密な研究はない。dharmaに関する最近の研究としては、
Journal of Indian Philosophy 32-5,6,2004,pp.421-750がある。『倶舎論』関連のものには、Collett,Cox:From Category to Ontology:The Changing Role of Dharma in Sarvastivada Abhidharma,pp.599-610がある。この雑誌の諸論文は、桂紹隆博士により「「ダルマ」に関する最近の研究成果」(1)(2)(龍谷大学アジア仏教文化研究センター、ワーキングペーパー)として抄訳紹介されて、インターネットで読むことが出来る。意欲ある方は、チャレンジするに値するテーマである。
 さて、もう1つの原典テキストのシャストリ本について一言すれば、1987年出版のものは1巻本であるが、1998年出版のものは2巻本である。そして、前者には、脚注が付されており、テキストの異読も示されているが、後者には脚注は欠落している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?