「倶舎論」をめぐって

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『倶舎論』には、この「理長為宗」の他にも、別なレッテルがある。櫻部建博士の著作からそれを紹介してみよう。
 整然とした構成と委曲を尽くした論述のゆえに学徒はこれを「聡明論」と呼んだといういい伝えも、よく知られているところである。(桜部建『仏典講座18 倶舎論』昭和56年、p.11)
櫻部博士は、補注で「普光の『倶舎論記』巻一にいうところ」と述べ、その出典を明らかにしている。ちなみに、大正新修大蔵教テキストデータベースで「聡明論」を検索すると、相当数の用例にヒットする。櫻部博士の指摘する出典『倶舎論記』には、こうあった。
 猶妙高之據宏海。等赫日之膜衆星。故印度學徒、號爲聰明論也。(普光『倶舎論記』No.1821,p.161,a21-22)
これによれば、『倶舎論』は、星々の輝きを覆う太陽のような書とされていることはわかるが、櫻部博士の説明とは、少々ニュアンスが違う。博士の解説にぴったりするのは、またしても、湛慧の『阿毘達磨倶舎論指要鈔』であった。同書は、眞諦の弟子慧愷(518-568)が草した『阿毘達磨倶舎釋論』の序(大正新修大蔵経No.1559,p.161,a28-b1)を引用し、以下のようにいう。
 インドの学徒は、〔『倶舎論』のことを〕聰明論と呼んだ。慧愷の旧『倶舎論』訳の序は伝える。「言葉は煩雑でなくて趣旨は明快である。意味するところは深いけれど、理解しやすい。故に、インドでは、悉くが聰明論と呼んだ。大小乗の学問は、すべてこれに依存して、基盤とした。」と。
 印度學徒號言聰明論也。慧愷舊倶舎序云、詞不繁而義顯、義雖深而易入、故天竺咸稱聰明論、於大小乗學、悉依此爲本。(湛慧『阿毘達磨倶舎論指要鈔』大正新脩大蔵経
No.2250,p.807,a15-16)
ここには、櫻部博士の解説を裏付けるような記述がある。どうやら、元を正せば、慧愷の『倶舎論』序が、「聰明論」の出所らしい。

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