仏教余話

その193
次のステップに移ろう。ただ、インド思想全般に一家言ある宮元啓一博士の言葉を、ここで、紹介し、これからの指針としたい。宮元博士はこう語る。
 仏教の開祖、ゴータマ・ブッダ(西暦紀元前六世紀半ばから五世紀半ば、一部には前五世紀半ばから四世紀半ばという説もあります)は、身心のいずれの要素も自己(パーリ語でアッタン、サンスクリット語でアートマン)ではないとする五蘊(要するに身心)非我説を唱えます。わたくしたちが、身心を自分の本体、つまり自己だと思いがちだということは、すでに話ましたね。身心は無常です。自己は常住(無始無終の永遠)です。ですから、身心を自己だと思うということは、無常で頼りにならないものを、あたかも常住なものであるかのように錯覚して頼りにするということに他なりません。それで、わたくしたちは、無常な身心を大切に思うのです。これを錯覚された自己への執着、つまり我執といいます。…ですから、我執は、ぜひとも取り除かねばならないのです。そのために、ゴータマ・ブッダは、身心への執着を断たせようと、身心のいずれの要素も自己ではないという五蘊非我説を唱えたんですね。ところが、時代が経ち、紀元前二世紀半ばになりますと、身心のいずれの要素も自己ではないならば、そもそもどこにも自己なるものはないとする「無我説」が前面の躍り出るようになります。…ゴータマ・ブッダは、「自己は存在する」とも、「自己は存在しない」とも、何もいっていないんです。ところが、後世の仏教徒たちは、このゴータマ・ブッダのきわめて合理的な考え方のポイントが分からなくなったんですね。妄執で錯覚なんだから、我執の対象はない、つまり自己は存在しないと、ずいぶん荒っぽいことをいい出したのです。気分として自己はないと考えるのはかまわないんです。気分としてはですね。しかし、自己は存在しないということを理論として立ててしまうのは大問題です。自己がないとすると、認識がなぜ可能なのかとか、行為の責任(功徳・罪障)を担う主体は何なのかとか、仏教以外の哲学諸派が、一斉に仏教の無我説を批判するようになります。当然といえば当然のことですね。ここから、仏教の大きな苦労が始まります。自己抜きで、あらゆる哲学的な問題を解決しなければならないんですから、それはもう大変です。その苦労の末に、心理学的な哲学としての唯識説が生まれたんですね。…ゴータマ・ブッダの教えの根幹は、自己は存在しないとする無我説だ、とする誤った説が巷にも仏教学者の世界にも蔓延していますが、困ったものです。それはさて措き、そういうわけですから、唯識論者たちは、見る主体(認識主体、意識主体)は認識(意識)だと強弁します。見られる客体もじつは認識(識、意識)なのですから、認識を認識する主体は認識であるということになるんだというわけです。…認識が自己反省すれば、当然のごとく、そこに「自己」(スヴァ=アートマン)という実在概念が浮かび上がるはずなんですが、唯識論者たちはそれを無視し、知識を反省するのはその当該の知識そのものであって、そしてそれが知識の本性だと主張します。これは、こういうことを意味します。つまり、唯識論者たちは、あくまでも意識現象のうちに立てこもり、意識現象を可能にしているものーそれは、実在の自己と実在の世界なのですがーそれについての判断を中止している(エポケーしている)のです。(宮元啓一『インド哲学の教室―哲学することの試み』2008,pp.25-36)
宮元博士は、ブッダの非我説を後世誤解したのが「無我説」だと、論じている。結局、「我はあるべき」というのが宮元博士説の肝であろう。先に、人間の意識のまとめ役「統覚」として、カントばりの超越的自己を認めるべきであり、インド哲学はカント的である、という趣旨の発言もしていた。博士の言によれば、無我説確立に成功したと目される唯識も、議論から、逃げている、ということである。博士の言葉を斟酌すれば、先の『大乗荘厳経論』で示された如来蔵思想こそ、仏教のあるべき姿に思える。

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