「倶舎論」をめぐって

            XVIII
『倶舎論』には、後代、多くの注釈書が作られてきた。インド・中国・日本・チベットで仏教学の基礎として学ばれてきたからである。説一切有部の論書として、なぜ、『倶舎論』が突出して重宝されてきたのだろうか?この理由について、櫻部建博士はこう述べている。
  『倶舎論』から入るのを“実際的”だといったのは、第1に、それが聡明論と呼ばれたほどに全体として明快な論述であり、サンスクリット原文とすぐれた三つの翻訳とが存する上、詳細な註釈がいくつもあり、近代学者の訳業や研究も種々出ていて、あやまたぬ理解を期し得るからである。…『倶舎論』はその名のごとく(倶舎=kosaは「辞典」の意味をももつ)一種の阿毘達磨用語辞典であって、それを精読することによって、緊密に構成された有部教学における複雑な術語組織の中のそれぞれの術語の語義を正しく把握し得るからである。(櫻部建「新たに説一切有部研究を志す人のために」『仏教学セミナー』61,1995,p.45)
『倶舎論』についての文献情報を整理しておこう。現在『倶舎論』には、サンスクリット原典がある。しかし、この出版は1967年であり、比較的近年のことである。出版直前に書かれた論文で、船橋一哉博士はこう述べている。
何と言っても、倶舎論の原典を出版することが、目下の急務である。この原典は三十年ほど以前に、ラーフラ・サーンクリトヤーヤナ氏がチベットで発見したもので、インドにおいて出版の準備中であるが、未だ刊行されていない。櫻部建氏が滞印中にこれを一部書写して持ち帰ったのを見せて貰ったが、非常によい写本で殆ど完本に近い。(舟橋一哉「インド仏教への道しるべ(2)アビダルマ仏教」『仏教学セミナー』6,1967,p.49)
『倶舎論』原典を渇望する雰囲気が感じ取られると思う。同様の発言は、櫻部博士も行っている。一般向け概論書として、今も珍重される書物の末尾を博士は、こう閉じている。
 『倶舎論』全体のサンスクリット・テキストもインドのP.プラダンによってすでに校訂が終わり、遠からず刊行されるはずである。久しく失われていて、もはや翻訳を通してか注釈書中の引用によってしか近づきえないものと思われていたこの名著の原形形態に、われわれが接しうる日ももう遠くないのである。(桜部建・上山春平『仏教の思想2存在の分析〈アビダルマ〉』昭和44年、p.169)
櫻部博士の著書が、サンスクリットテキスト無しで、出来上がっていたことにも、驚くが、今は、テキストを待望する学界の有り様を知ってもらえばよいだろう。
さて、さらに、サンスクリット原典出版までの状況を手短にスケッチしたものとして、田中教照氏の記述がある。合わせて、見てみよう。
 『倶舎論』の重要性にもかかわらず、明治以降の研究があまりふるわなかったもう一つの理由は、『倶舎論』のサンスクリット原典がつい最近まで公刊されなかったことにある。明治以前には、もっぱら漢訳を通して進められてきた仏教研究が、明治に入り西欧からサンスクリット語やパーリ語の校訂本が輸入されるようになると、直接にインドの原典にもとずいて行う研究に方法が変えられ、その結果、多くの学者が競って原典研究の方に走った。そして、おのずから、原典を欠く文献の研究が手薄になったのである。原典のなかった『倶舎論』の場合も、その例外でなかったといえる。…しかるに、一九六七(昭和四二)、待望の『倶舎論』サンスクリット原典がP・プラダン教授によって公刊されるや、多くの学者を再びこの仏教基礎学の重要文献に立ち帰らせることになった。(田中教照「倶舎論」平川彰編『仏教研究入門』1984,pp.47-48)
如何に、原典出版が大事なのか、よくわかる報告であると思われる。重複する部分もあるが、加藤純章博士の全仏教を見通した俯瞰図も紹介しておこう。
 わが国のアビダルマ仏教研究には、長い伝統がある。それは性相学といわれるもので、特に『倶舎論』研究と密着していた。しかしこの伝統は、戦後次第に衰えてきた。そして同時に近代的実証的研究においても、アビダルマ研究を志す人々は少なくなってきた。その理由として、従来の伝統学がきわめて煩瑣で、長期間の修練を必要としたこと、研究者の興味が直接人間の心に響く釈尊の教えや、大乗仏教の教義に移っていったこと、アビダルマの文献に梵文の完本が存在せず、正確な研究が不可能と考えられたこと、などがあげられよう。しかし、一九六七年、『倶舎論』の梵本がインドの学者プラダン教授により校訂出版されて以来、アビダルマを専攻する研究者は増大した。アビダルマの歴史と思想が、より詳細に解明されはじめたのである。そしてこの梵本の出版はまた、アビダルマ仏教ばかりでなく、原始仏教、大乗仏教の研究にも計りしれない貢献をなしつつある。アビダルマは煩瑣な教義と精緻な体系からなっているので、仏教研究を志す人々にとって一見近ずき難いように思われる。しかしアビダルマは、原始仏教聖典に対する最も早い時期に成立した信頼しうる註釈書とみることができる。この点でアビダルマ研究は、原始仏教を解明する最良の方法の一つである。また大乗仏教は、アビダルマへの批判から出発した。大乗経論にはしばしば、アビダルマ思想の引用とそれへの非難がみられる。この点でアビダルマ研究は、大乗仏教の思想を理解する上でも、きわめて重要である。そして最後に何よりも、アビダルマ仏教そのもの存在理由が明らかにされねばならない。今日でもいまだにアビダルマの歴史と思想は、わからないことばかりである。人はしばしばアビダルマ仏教を無味乾燥な、本質からはずれた煩瑣な議論としかみず、また大乗仏教が発生するためのアダ花としかみなさないようであるが、その歴史と思想が解明されないでこのような結論に至ることは適当ではないと考える。勝れた文献学的方法によって、アビダルマ仏教史を再構成する日が遠からず訪れることを期待したい。(加藤純章「アビダルマ」平川彰編『仏教研究入門』1984、pp.61-62)
加藤博士は、このように、原典の重要性のみならず、『倶舎論』を中心とするアビダルマ仏教の意義を鋭く指摘している。長い引用になったが、大事な見解であるので、紹介してみた。

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