Tips of Buddhism
No.52
In the Indian Buddhist philosophical schools,it is clearly asserted or implied that all phenomena known to exist are classified as either”conventional realities”(samvrtisatya-s)or”ultimate realities”(paramarthasatya-s),…
(J Duerlinger;Indian Buddhist Theories of Persons,Vasubandhu’s “Refutation of the Theory of a self”,London and New York,2003、p.16)
(hints,conventional realities世俗諦、ultimate realities勝義諦)
(訳)
インド仏教哲学的部派において、存在すると知られている全現象は、世俗諦か勝義諦に分類されると、明白に述べる、あるいは暗に示すのである。
(解説)
世俗諦(せぞくたい)・勝義諦(しょうぎたい)の分類は、一般世間では馴染みのない言葉であろうが、仏教においては、ポピュラーなものである。「本音」と「建て前」と言えばわかりやすいかもしれない。例えば、龍樹(りゅうじゅ)の『中論(ちゅうろん)』では、次のような言葉がある。
諸仏の教えの教示は、二諦に依存し、〔行われる〕。
世間・世俗諦と勝義としての諦である。〈『中論』24章、第8偈〉
しかし、仏教以外の宗派からは、諦=真理が2種類あることは矛盾である、などと批判されたこともある。また、世俗諦・勝義諦の内容は、仏教諸派によって、異なる。中観派にとって、全存在は空で、それが勝義諦なのである。世俗諦は、世間の常識的あり方のことだろう。
一方、『倶舎論』においては、世俗諦とは、分析可能なもの、勝義諦とは、もうそれ以上分析出来ないものをいう。第6章「賢(けん)聖品(じょうぼん)」では、こう述べている。
あるものを〈物理的に〉破壊した時、それの認識がなくなるもの、そして、知性によって、〈成分を〉分析した(anyapoha,gzhen bsal)時、〔それの認識がなくなるもの〕、それは、壺や水のようなものであり、〈分割可能な〉日常的な存在(samvrtisat,世俗有)である。そうでないとすれば、〈分割不可である〉究極的な存在(paramarthasat,勝義有)である。〈「賢聖品」第4偈〉
ここには、仏教をある面代表するような世界観が説かれている。徹底的な分析(ぶんせき)至上(しじょう)主義(しゅぎ)である。たとえを挙げると、車が部品に分解される場合、車は世俗で、部品は勝義なのである。この考え方にも一理あるが、納得出来かねる面もある。
インド思想の本流中の本流、文法学派(Vyakarana)の重鎮(じゅうちん)、バルトリハリ(Bhartrhari、5世紀頃)の考え方を、清島(きよしま)秀樹(ひでき)氏は、以下の如くまとめている。
〔バルトリハリに〕極めて頻繁(ひんぱん)に現れる一つの発想がある。それは「部分は全体の基盤ではなく、全体が部分の基盤である」とする発想である。少し形を変えれば、「全体が真の実在であり、部分は実在ではない」となる。…その基本骨格は〈全体―部分〉関係に他ならない。そして、〈部分〉は、それが感覚器官であれ単語であれ、〈全体〉を離れて単独に存在し得るものではなく、常に〈全体〉に依存して存在する、というのが彼の考え方である。(清島秀樹「バルトリハリの言語哲学」『岩波講座 東洋思想 第七巻 インド思想 3』1989,pp.110-113、ルビ・〔 〕私)
インドではサンスクリット語の文法は、諸学の王であり、1つの宗教でさえあった。文法学派によれば、車が勝義で、部品は世俗なのである。教訓として欲しいのは、インドにおいて、「まず、仏教ありき」という見方を変えることである。インド思想の中の仏教なのである。
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