「倶舎論」をめぐって

XV
博士は、上の書において、中国や日本の『倶舎論』研究を詳細に論ずる。その辺りに疎い私としては、是非、参考にしなければならない。その中から、最も簡明な記述を、以下に紹介しておこう。
 訳経三蔵の鼻祖と称せらるゝ二世紀中葉の出世なる安清高は、主に小乗経を訳出し、最も阿毘曇学〔アビダルマ〕に通ずと云へば、有部研究の濫觴は頗る古しと云はざる可からず。されど其後何れも訳経事業のみにして、有部の研究甚だ振はず。紀元三九一年僧伽提婆に依て、法勝毘曇の訳出あり。紀元四一一年羅什に依て成実論の訳出ありし已来、毘曇及び成実の研究に従事するもの漸く多く、支那上古に於て一時阿毘曇の研究は可なり栄へたりしが如し。紀元五六三年真諦出でゝ倶舎論二十二巻を訳出し、加ふるに倶舎論疏六十巻を著作し、大に倶舎の研究に力めたりしより、毘曇の研究は忽ち倶舎の研究に変じ、其後智愷、道岳、智浄、相前後して、競うて之が註疏を著作したり。紀元六五一年新訳の鼻祖玄奘出でゝ倶舎論を改訳し、之を三十巻とせり。倶舎研究の流行は其頂点に達し、門下より元瑜、神泰、窺基、懐素、普光、法宝等の諸師輩出し、是に於て倶舎の註疏は数多著作されたりき。、元瑜。著書として順正理論述文記あり、古来全部欠本、或は一巻現存すと称せられたるも、近来第九、第十八の二巻を捜索し得て、之を続蔵経中に編入せしことは、実に近代の快事と謂ふべし。、神泰。著書として倶舎論疏三十巻あり、されど今は単に七巻のみを残せり。之も第一、第四、第五、第七の五巻のみ現存すとして、普通伝へられたりしを、其後第六及び第二十五の二巻を捜索し得て、之を続蔵経中に編入せしことは、実に近代の快事として、賞賛するに尚余りありと謂ふべし。、窺基。常に慈恩大師と称せられるゝ人にして、又倶舎論抄を著作せりと云へど、惜い哉現存せず。、懐素。著書に倶舎論疏ありと云へど、之も現存せず。、普光。神泰に比しては稍〔やや〕後進なれど、玄奘の口伝を承けて著作したりと云へる倶舎論記三十巻は、大に後世の喝采を博し、現今多く此光記に従ふ、其説至て穏当にして、能く有部及び倶舎の論旨を発揮せり。他に著書として法宗原二巻あり、小伝は宋伝に見ゆ。、法宝。著書に倶舎論疏三十巻あり、欠本巻十二近頃石山より発見せらる。師の説は峰尖鋭く、往々大乗の旨趣を以て之を解釈せしより、有部及び倶舎の論旨に乖反したる点なきにしもあらずと雖も、其説頗る人気に投合し、一時可なり盛んに継承せられ、寧ろ光記を凌がんとするに至れり。宝の説は、多く光に反対せるを以て、後世光宝二学派を生じ、現今尚之両派の存在を見る、是れ実に世親以後に於ける一大変動なり。…西暦七八世紀の交に至りて、再び倶舎に於ける一大変化を起せり、即ち円暉の出世、頌疏の著作是なり。円暉は賈曾〔カソ〕の属に依て、倶舎論頌疏二十九巻を著す。文流暢にして義理悟暁〔サト〕り易く、倶舎本論に入るの階梯として好個の書なり。否倶舎の要領を知るに於て、最も適当のものなるに依り、以来本論の拮掘傲牙〔キックツゴウガ〕にして入り難きを厭ひ、却て頌疏を講習するの風起り来り、其後支那及び我邦の於て、頌疏の註釈数多現れ、本論系と頌疏系との二流派を生じ、本論は空しく専門家の手に残るに至れり。頌疏に於て最も有名なるは、其序論に顕密両宗説を唱導するにあれど、其は後人に依て余り多く用ひられざりき、否寧ろ其反対に出づるもの多く、単に頌疏の一説として存せらるゝのみ。頌疏に註釈を加へたりしは、遁麟及び慧暉にして、麟は頌疏記二十九巻を、暉は頌疏鈔六巻を著作せり。…(舟橋水哉『倶舎の教義及び其歴史』昭和15年、付録「倶舎小史」pp.37-43,〔 〕内私の補足、1部現代語表記に改めた)
ここには、中国における『倶舎論』研究の推移が点描されている。非常にわかりやすい。


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