新チベット仏教史―自己流ー
チベット仏教―アティシャ1ー
その1
サムイェの宗論を経て、仏教はチベットの国教となりますが、吐蕃(とばん)という大きな国は分裂し、仏教もその影響から堕落(だらく)の一途(いっと)を辿りました。これを憂(うれ)いたチベット上層部は、仏教の立て直しを図ります。そのために、インドから著名な学僧を招こうと考えました。当時のインドには、ヴィクラマシーラという有名な僧院がありました。そこの主導的学僧の1人にアティシャ(Atisa)がいました。チベット王は、彼をチベットに招くことを企てます。その顛末(てんまつ)は少し後で述べることにして、まず、アティシャという名前について、興味深い事実を伝えましょう。
実は、少し前までは、アティシャはアティーシャと呼ばれていました。しかし、アイマ―(H.Eimer)という学者がチベットの伝記資料を精査(せいさ)して、アティーシャという表記はないと報告してから、アティシャが使用されるようになりました。それでもこれに異論を唱える学者もいますので、この呼び方もまた変更される可能性もあります。このように、仏教史において極めて有名な人物でさえその呼び名が一定しないのです。このことからも、仏教の定説もいつ覆(くつがえ)るかわからないことを認識しておいてください。
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