Tips of Buddhism

No.22
Zhiyi智顗(538-597)of the Tiantai school and Jizang吉蔵(549-623)of the Sanlun school are contemporaries,although the latter is a little younger than the former.Both based their teaching on Madhyamaka school of Nagarjuna,introduced to China by Kumarajiva,and respectively they founded the Tiantai and Sanlun schools.Although both the Tiantai and Sanlun schools focus on emptiness,we can find their true difference in theory and practice.
(hints,Tiantai天台、Sanlun三論、Madhyamaka中観、Nagarjuna龍樹,Kumarajiva鳩摩羅什)
(Lin Julian,Tiantai Zhiyi’s Opinion about Sanlun school,Journal of Indian and Buddhist
Studies,64-3,2016,pp.1358-1359)

(訳)
天台宗(てんだいしゅう)の智顗(ちぎ)と三論宗(さんろんしゅう)の吉蔵(きちぞう)は、同時代人だった。後者は、前者より若干年少であったのだけれども。両者は、龍樹(りゅうじゅ)の中(ちゅう)観派(かんは)を教えの基盤とした。〔中観派は〕鳩摩羅什(くまらじゅう)により中国に伝わったもので、〔2人は、それに基づいて〕、それぞれ天台宗・三論宗を作った。天台宗も三論宗も、空(くう)に目を向けているが、理論と実践における真の相違を見出せ得るのである。

(解説)
『印度学仏教学研究』という専門雑誌の近刊から引用した。仏教学の分野で、最もポピュラーな雑誌である。近年は、1部をネットで読むことも出来る。また、論文データベースもあるので、気になる仏教用語や人名が出てきた場合には、すぐさま、専門的な論文を検索出来る。更には、すべての漢訳大蔵経の用語検索も可能になった。色々な面で、便利なツール紹介という意味で、引用した。
さて、ここには、中国仏教を代表する宗派と開祖のことが書かれている。日本では、比叡(ひえい)山(ざん)延暦寺(えんりゃくじ)が、天台宗の総本山で、日本仏教に君臨(くんりん)した。元々は、中国の智顗が開祖である。宗派形成の場所、天台山(てんだいさん)から名づけられた。ただ、中国と日本の天台宗は、質が違う。日本では、中国天台に密教をプラスしたのである。一方の三論宗は、吉蔵以降あまり盛んではない。日本にも導入されたが、宗派としての存在性は薄い。インド人の龍樹(りゅうじゅ)の著作等3つの論を重んじることから名づけられた。吉蔵は、青い目をしていたと伝えられている。西域(さいいき)系(けい)の人だったのだろう。鳩摩羅什(くまらじゅう)という僧も西域人で、クチャ国と言うところから、中国に連れて来られ、翻訳に従事させられたという。そもそものルーツは先にも名を挙げたインド人学僧、龍樹(りゅうじゅ)である。奇妙な名だが、原語名(Nagarjuna、ナーガールジュナ)を意訳したものである。ナーガが龍、アルジュナが樹の意味である。『般若経』等の「空(くう)」(sunya,シューンヤ)を理論化した人として、讃えられている。空は、深遠な思想として特別視されるけれど、原語の用例からすれば、「無」と同義である。問題なのは、何が無いか(何が空なのか)という点である。
龍樹には、後に触れる機会もあろう。他でも、よく聞く仏教のビックネーム達だろうから、詳しいことは、そちらに任せたい。ここで、頭に留めて欲しいのは、『印度学仏教学研究』とその周辺の利用ツールのことである。
一言だけ中国仏教の特色に触れておこう。インド仏教では、歴史的順序で教典等の文献は作られたが、それが中国に伝播する場合、古い時代の経典と新しい時代の経典がほとんど同時期に伝わるというようなことが起こり、中国僧はそれらを思想的に整理することに追われた。当然、混乱も生じやすい。そしてその流れが日本にも伝わったのである。ただ、記録の国中国では、何時その経典が漢訳されたのかという記録が残っている。これが、年代決定の目安になる場合が多い。
 
 


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