新チベット仏教史―自己流ー

その3
この我の扱い方には、微妙な、それでいて看過(かんか)出来ない思想的問題があることは、皆さんご存じでしょう。次に示す、中村元氏の見解を見れば、事の実情が把握できるはずです。
 仏教の説いた無我説、というよりはむしろ非我説(ひがせつ)は、後代には正統バラモン系統の思想に影響を及ぼすようになった。『マイトリ・ウパニッシャド』においては、『〔個我は〕「それはわれである」「これはわがものである」と、このように考えて、みずから自己を束縛(そくばく)する。あたかも鳥が網によって〔自己を縛る〕ようなものである』(Maitri-Up.,III,2;VI,30)といい、『解脱した人はそれと反対である。それゆえに、決定することなく、思惟することなく、妄想することなく住するならば、これが解脱(moksa)の特質である』(Maitri-Up.,VI,30)と説明している。また『バガヴァッド・ギーター』においてもいう。-『一切の愛欲をすてて、欲求なく、わがものの観念なく(nirmama)、自我の観念のない(nirahankara)人は、やすらぎに到達する』(Bhag.G.,II,71)アートマン(我)の哲学を説いた当時の哲人たちが、このように仏教の無我説を採り入れて、そこになんらの矛盾を感じなかったのである。したがって、仏教の修行者がアートマンの実現・愛護と、無我説とをともに説いたとしても、なんら不思議はないであろう。(中村元『中村元選集[決定版]第24巻 ヨーガとサーンキヤの思想 インド六派哲学I』1996,pp.494-495)
こういった見解に触れると、インド思想の中で、仏教と非仏教を明確に区別することの難しさに直面します。ブラバツキーの文章にそのような影が感じられても不思議はありません。当時の欧米人に通念があったとすれば、上のような議論になるわけです。大事なことなので、もう少し、ブラバツキーの文章の続きを読みましょう。

その4

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