「倶舎論」をめぐって

LXVII
さて、他のインド撰述注釈書等もあるが、基本的理解にあたっては、上記3点だけで十分であると判断する。もう1度、3点のおおまかな特質を整理しておこう。プールナヴァルダナは、スティラマティの弟子ともいわれ、両者の注釈文は似ている部分も多い。しかし、2人の立場は、異なっている。スティラマティは、説一切有部に批判的であるが、プールナヴァルダナは好意的である。スティラマティの注は、悪訳として知られるが、それを弟子の注釈により訂正出来ることもある。ヤショーミトラの注は、説一切有部を批判するものであろう。しかし、先に簡単に触れたように、これらの、3大注釈の利用には、慎重であらねばならない。なぜなら、3大注釈のすべてが、ディグナーガの影響下にあると思われるからである。世親に対するディグナーガの立場は、微妙である。批判しているとも賛同しているとも決めかねるのである。確かにディグナーガは、世親の弟子筋に当たる。しかし、彼が出家したのは、世親が手酷く批判した犢子部であり、その影響は、消え去っていない節がある。それどころか、犢子部的要素は、後にダルマキールティに受け継がれた気配すらある。この経緯については、彼らの「部分と全体観」を紹介する際に、述べた。とすれば、ディグナーガ思想の洗礼を受けている注釈の使用は、躊躇せざるを得ないのである。ちなみに、ヤショーミトラの『明瞭義』Sphutarthaには、ディグナーガ作『集量論』Pramanasamuccayaの帰敬偈の1部が引用されている。(木村誠司「『倶舎論』における’svalaksanadharanad dharmah’という句について」『駒沢短期大学仏教論集』7,2001,p.245の注25)参照)また、スティラマティ(Sthiramati)の『真実義』Tattvarthaには、『集量論』に対する注釈をなしたかのような記述がある。(松田和信「五蘊論スティラマティ疏に見られるアーラヤ識の存在論証」『インド論理学研究 I 松本史朗教授還暦記念号』平成22年、p.198参照)さらに、プールナヴァルダナ(Purnavardhana)の『随相論』Lakasannusariniには『集量論』第5章の引用があるという。(櫻部建「破我品の研究」『大谷大学研究年報』12,1960、pp.33-34参照)3注釈の貸借関係については、箕浦暁雄「『倶舎論』における蘊(skandha)の意味規定―『倶舎論実義疏』・『倶舎論注疏随相』研究小史」『真宗教学研究』25、2005年、pp.92-105参照。特にp.104の注㉚には、簡明な図が示してある。しかし、先に挙げた福田琢氏の論文への言及は欠いている。

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