仏教論理学序説

その3
少々、『仏教論理学』を離れ、赴くままに論じてみよう。ダルマキールティの「量評釈」のうち、特に宗教色の濃い「量成就」章は、いつのころからか、その文頭の7偈を「量の定義を説くものとされた。私の知る範囲ではダルマキールティが定義を特に論じる箇所はない常識的な理解を示すだけのように思える。ともあれ、その理解を頼りに「量成就」章の7偈を見ると、先に紹介したプラジュニャーカラグプタの解釈が最も理にかなって見えた。彼の2派が間違っているとも断定出来ない。30年ほど前には、研究者はこぞって7偈を論じたけれど、今や忘れられたままである。研究の流行りと廃りを見るようで、釈然としない。
それはさておき、チベット仏教では定義は大問題となった。彼らは、ダルマキールティを離れ、仏教論理学以外のテキスト『現観荘厳論』Abhisamayalamkaraや『大乗荘厳経論』Mahayanasutralamkaraに解決の糸口を求めた。そして最終的に定義・所定義の2項に第3項を加え、それがチベットの定番となった。非常に入り組んだ話で、これにも解明に余地は山ほどあるのである。正統的な歴史からずれているが、私見の範囲で重要と思われるので、脱線してみた。次回はまた別な話題である。

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