仏教余話

その217
さて、和辻とローゼンベルグに時間を費やしたが、最近、この辺りの事情を伝える論文が草されたので、興味をそそるような記述を、いくつか紹介しておこう。時代の雰囲気や当時の学問動向を知るには、うってつけである。西村実則氏は、ローゼンベルグの身辺を、こう伝えている。
 来日したローゼンベルグに親しく接し、しかも氏の身辺の世話をしたのは渡辺海旭であろう。ローゼンベルグの最初の著書『漢・日資料より見た仏教研究序説』は渡辺と共著で出版されているし、渡辺の面倒見のよさ、「功を他に譲る」精神は生来のものといわれるからである。深川の自坊西光寺は外国人の出入りが絶えず、そのため「国際テンプル」の異名があり、氏自身、自坊を「招提寺」(四方の人)という程である。(西村実測「荻原・渡辺とローゼンベルク(続)」『佐藤正順博士古希記念論文集 東洋の歴史と文化』2004,p.247)
大分以前に、最早、名前すら忘れられているような人物ではあるが、荻原雲来の友人とし
て、1度だけ、紹介した渡辺海旭が、ここに登場するのも興味深い。ローゼンベルグの日本での、修学の様子についても、西村氏は、述べている。
 ローゼンベルクは来日中どこで学んだかについても渡辺に次のような指摘がある。特に露国の如きは留学生(ローゼンベルク)を東京に送り帝国大学及び吾が宗教大学の加藤荻原諸学者に就きて倶舎唯識等の研究をなさしめつつあり…..〔『壺月全集』下p.233〕
 これによればローゼンベルクは帝大、宗教大で講義を聴いたことがわかる。当時、帝大には高楠順次郎がサンスクリット、パーリ語、インド思想一般を、あるいは木村泰賢が帝大講師としてインド六派哲学を講じていた。ただし、木村はその頃、荻原とは別に『倶舎論』の国訳(のちに『国訳大蔵経』所収)の作業を進めていたから、〔シチェルバツキーを中心に国際的に展開されていた〕 『倶舎論』研究プロジェクトの勢いは木村にまで及んでいたことになる。他方、宗教大学〔現大正大学〕では荻原雲来だけではなく、加藤精神の講莚にも列した。当時荻原と加藤とは『倶舎論』の解釈、とりわけ〔1種の時間論である〕三世実有論や〔原子論に相当する〕極微論をめぐって論争を繰り返していた。荻原は聖語研究室、加藤は仏教学研究室と壁一つ隔てて在籍したが、論争は誌面を通じてであった。ローゼンベルクは自著『仏教哲学の諸問題』にこの論争に触れることはないが、しかし時期的に知っていたと思われる(ローゼンベルクの『仏教哲学の諸問題』には加藤の名が一箇所認められる)。そのほか奈良の法隆寺をローゼンベルクはスコラ哲学の一センターと呼ぶことがあるから当然注目したはずである。法隆寺ではローゼンベルクの来日の前年(一九○八年)に性相学の権威佐伯定胤が管長に就任し、すでに以前から倶舎と唯識を同寺の勧学院で講じていた。この勧学院では明治二十六年(一八九三)から昭和十九年(一九四四)まで実に五十年間、性相学が開講され、佐伯がおもに〔玄奘の弟子であり、法相宗に属する〕基や普光の教学を中心に講じていた。(西村実測「荻原・渡辺とローゼンベルク(続)」『佐藤正順博士古希記念論文集 東洋の歴史と文化』2004,p.250,〔 〕内私の補足)
法相宗系の伝統学が、しっかりと生きていた時代の話である。ほんの5-60年前の姿で、今では、想像も出来ないが、『倶舎論』の原典は、まだ、出版されておらず、そのチベット語訳も、参照する機会が少なく、頼りになる参考資料は、漢訳文献のみだったのである。

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