仏教余話

その235

『倶舎論』第5章「随眠品」(anusayanirdesa)(アヌシャヤ・ニルデーシャ)は、煩悩論を展開する章であるが、それと絡めて、三世実有説をめぐる攻防がある。その中に、次の1節がある。そこでは、説一切有部の別名と目される毘婆沙師(びばしゃし)と並んで、説明されている。更に、その毘婆沙師が一枚岩ではないことを匂わせるような記述も続くのである。以下の如し。
故に、過去・未来のものは、絶対(eva,kho na)存在すると、毘婆沙師(vaibhasika,bye brag tu smra ba)達はいう。間違いなく、このことは、〔毘婆沙師が〕「説一切有部」としてある以上、認められねばならない、と伝承されている(kila,grags)。なぜなら、
  それが存在するので、〔毘婆沙師は〕一切が存在すると説く者達〔説一切有部〕と認知されたからである。
つまり(hi)、過去・未来、そして現在のもの一切が存在すると、語る者共、彼等が「説一切有部」なのである。
然るに、現在、そして、結果をもたらしていない、若干の過去の業は存在し、結果をもたらした若干の過去〔の業〕、そして未来は、存在しないと、分けて、語るのは、分別論者(vibhajyavadin, rnam par phye ste smra ba)なのである。
1.     tasmad asty evatitanagatam iti vaibhasikah/avasyam ca kilaitat sarvastivadena sata’bhyupagantavyam/yasmat
tadastivadat sarvastivada istah,
ye hi sarvam astiti vadanti atitam anagatam pratyutpannam ca,te sarvastivadah/
ye tu kecid(read.kimcid,小谷・本庄本注7) asti yat pratyutpannam adattaphalam catitam karma,kincin nasti yad dattaphalam atitam anagatam ceti vibhajya vadanti,te vibhajyavadinah/
(P;p.296,ll.3-6,S;p.633,ll.2-8)
2.     de lta bas na bye brag tu smra ba rnams na re ‘das pa dang ma ‘ongs pa yod pa kho na ‘o zhes zer ro//thams cad yod par smra ba yin phan chad gdon mi za bar ‘di khas blang bar bya dgos zhes grag ste/’di ltar
de yod smra ba’i phyir thams cad yod par smra bar ‘dod/
gang dag ‘das pa dang ma’ongs pa dang da ltar byung ba thams cad yod par smra ba de dag ni thams cad yod par smra ba yin gyi/gang dag da ltar ba dang ‘bras bu ma skyed pa’i las ‘das pa gang yin pa cung zad cig ni yod/ma ‘ongs pa dang ‘bras bu bskyed zin pa’i ‘das pa gang yin pa cung zad cig ni med do//zhes rnam par phye ste smra ba de dag ni rnam par phye ste/smra ba dag yin no/ (北京版、No.5591,Gu.280a/6-280b/2)
3.説三世有故、許説一切有
毘婆沙師定立去来二世実有。若自謂是説一切有宗決定応許実有去来世以説三世皆定実有故、許是説一切有宗。謂若人有説三世実有方許彼是説一切有宗。若人唯説有現在世及過去世未与果業説、無未来及過去世已与果業、彼可許為分別説部。(佐伯旭雅『冠導阿毘逹磨倶舎論』II,平成5年、rep.of 1978,p.829,l.4-831,l.4)
4.是故知過去未来是有、毘婆沙師立如此。若人自我是薩婆多部同学。此義必応信受。何以故。偈曰由執説一切、有許。
釈曰若人説一切有、謂過去未来現世、虚空択滅非択滅、許彼為説一切有部。復余人説現世法必有過去業、若未与果是有、若過去業已与果、及未来無果此皆是無、若如此分別故、三世実有、此人非説一切有部摂、是分別部所摂。(大正新修大蔵経、No.1559,257c/19-27)
拙訳と現在披見出来るテキストを提示しておいた。テキストを巡るあれこれは、後で、詳しく論ずる。今は、極、初歩的な知識のみ伝えておく。まず、1は、サンスクリット原典である。1番よく底本として、使用されるのは、原文転写の後にカッコ内において、略号pで示したP.Pradhan ed.,Abhidharmakosabhasyam of Vasubandhu,Tibetan Sanskrit Works Series,Vol.VIII,Patna,1975,second ed.である。つまり、プラダンという人の公刊したテキストの第2版なのである。勿論、第1版を使用してもよい。次にsで示したのは、S.D.Sastri ed.,The Abhidharmakosa & Bhasya of Acarya Vasubandhu with Sphutartha Commentary of Acarya Yasomitora,Bhauddha Bharati Series5-6,Varanasi,1998,2vols.である。こちらの方が入手しやすく、廉価である。2は、チベット語訳テキストである。チベット語訳には、色々な版がある。主に利用するのは、北京版とデルゲ版である。3は、玄奘の漢訳を、前に紹介した佐伯旭雅の校訂本から引用した。4は、真諦の漢訳である。一般的に、玄奘よりも原典に近い訳といわている。読めば、一目瞭然、説一切有部の名称の由来がズバリ示されている。


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