「倶舎論」をめぐって

LXXXVII
これで、更に詳しく中国における『倶舎論』研究の経緯がわかった。解説の中に船橋水哉『倶舎小史』という書物が提示されている。恐らく、その書を読めば、更に詳しいことが判明するのだろう。いつか披見の機会があれば、詳細を報告したい。
 次に日本の『倶舎論』研究史について見てみよう。私は、この方面にも、暗いので、またしても、櫻部博士の解説を仰ぎたい。
 日本へ『倶舎論』が知られたのは、奈良の僧道照が入唐(六五三年)して玄奘に謁し、その新訳をもたらしたのが初めらしい。そこでまず奈良の諸寺において『倶舎論』の研究が始まり、ついで平安時代にはいると比叡山・三井寺などでとくに『倶舎論頌疏』の学習が盛んになった。『頌疏』をはじめてもたらしたのは三井寺を再興した円珍であり、日本浄土宗の鼻祖として名高い比叡山横川の源信もまた一面『頌疏』の学者であった。平安末期から鎌倉期にかけては東大寺に珍海・宗性などの学僧が出ている。室町時代にはやはり東大寺にいた英憲などが目立つくらいで比較的低調であったが、徳川時代にはいって仏教各宗に学林の制度が整うと『倶舎論』研究はにわかに活況を呈する。真言宗の系統では、大和の長谷寺に周海・法住・快道などがあり、京都の智積院に海応・信海など、高野山に秀翁などの名が知られている。浄土宗からは京都御室の長時院にいた湛慧、その弟子普寂らが名高く、真宗の人としては法幢・宝雲・法海・龍温・法宣らが有名である。これらの学僧の中でも快道・普寂・法幢などの研究はことに独創的であり玄奘の新訳のみにかたよらぬ批判的な態度を持していて、現代の学者からも高い評価を受けている。幕末から明治にかけて藤井玄珠と佐伯旭雅はそれぞれ『倶舎論』の校訂・注解にすぐれた業績を示した(『校註倶舎論』『冠導倶舎論』)。明治以後にも『倶舎論』の解説書は数多く出されており、高木俊一『倶舎教義』などは出色のものとされる。戦後に出たものとしては深浦正文の『倶舎学概論』がある。(桜部建・上山春平『仏教の思想2存在の分析〈アビダルマ〉』昭和44年、pp.164-165)
別の概説書では、櫻部博士は、以下のようにいう。
 奈良時代には、倶舎宗が法相宗の「寓宗」〔附属の宗派〕であったという事情もあってか、特に倶舎論についての研究書として今にのこるものはないようである。しかし、先に名をあげた『法苑義鏡』や、やや時代が下がって平安時代に入るが、同じ興福寺(北寺)系の中算(あるいは仲算、十世紀の人)の『賢聖義略問答』などは、唯識にあわせて倶舎の教義についても多くの紙数を割いている。平安期に入ると、十一世紀初頭、源信に『大乗対倶舎鈔』十四巻(大日本仏教全書八五)があり、六十余部の経論を引いて倶舎の学説と大乗(主として唯識)の教説を克明に対比している。十二世紀に入ると東大寺の珍海によって『倶舎論明眼鈔』六巻が、十三世紀初頭には同じ東大寺系の宗性によって『倶舎論明思鈔(または本義鈔)』三十二巻(または四十四巻)が書かれた(ともに、大日本仏教全書八六。『明思鈔』は、また、大正二二四九)。十六世紀まで下がってやはり東大寺の英憲に『頌疏鈔』三十二巻(大正二二五四)がある。徳川初期では高野山の秀翁の名が知られる程度であるが、中期以後になると、俄然、諸宗に倶舎学者が輩出する。すなわち、真言宗では大和の長谷寺の系統に周海・法住・快道らが、京都の智積院の系統に海応・信海らが、泉涌寺旭雅があり、浄土宗では京都御室の長時院に住した湛慧、その弟子普寂らが有名である。真宗の人としては法幢・宝雲・法海・龍温・法宣らが知られている。なかでも快道(大正二二五一『倶舎論法義』など)・普寂(大日本仏教全書八九『倶舎論要解』)法幢(大正二二五二『倶舎論稽古』)らの研究はことに独創的であり、玄奘偏重を退け、あくまでも理を追及する鋭い学的態度を持している。そして旭雅の『冠導阿毘達磨倶舎論』は、明治になってから出されたものであるが、まさに、隆盛をきわめた徳川期倶舎学の業績の集大成といった感がある。(桜部建『仏典講座18 倶舎論』昭和56年、pp.39-40,〔 〕内は私の補足)
櫻部博士の解説で、日本の伝統的『倶舎論』研究史を通覧した。

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