仏教余話

その194
しかし、宮元博士的な考えを真っ向から否定する意見もある。袴谷憲昭氏は、こう述べている。
 仏教の以前から更に成立後の永い時を経た今に至っても、「非我説」に立ち、なんとか霊魂否定説を克服して霊魂肯定説に回ろうとする立場が根強いことも事実である。ただし、この立場に立つと、非本来的な「アートマン」を否定するだけで本来的な「アートマン」は肯定されることになるので、その結果、一方では、「アートマン」に付着した非本来的な業を滅して「アートマン」の解脱を目指すという「苦行主義」による「解脱」や「般涅槃」を肯定することになり、他方では、主客の二元対立を超えた非判断的「アートマン」の観点に同化することによって主張命題を回避する判断保留の詭弁に走ることになる。(袴谷憲昭『仏教入門』2004,pp.148-149)
また、こういう意見もある。松本史朗博士はいう。
 中村博士は、初期仏教においては、非我説が説かれているだけで、無我説は説かれていないと詳しく論証された。私もこれにはある意味では全面的に賛成で、原始仏教の思想研究において、これほど有益な指摘もなかったと思われる。しかしそれは、“非我説とは必然的に我論である”という理解を前提にしたうえで言えることである。私の文字通り管見する限りでは、パーリ五二カーヤ全体の中においてさえ、“我(アートマン)は存在しない”と明確に断言する文章は、存在しないであろう。そこに見られるのはただ、“非我を我と思ってはならない”“非我なるものを我がものとして執着してはならない”“我がもの(所有)を捨てよ”という非我説なのであり、この非我説は、我論を説くジャイナ教の“無所有”の思想にピタリと合致するのである。では、仏教は非我説(我論)であって、無我説ではないのかといえば、仏教の無我説というものは、“仏教”それ自体ともいうべき“縁起”から論理的に導かれるし、またそこからしか導かれないというのが、私の基本的な理解である。すなわち、原始仏典に無我説の明文は全く存在しないが、縁起説というものだけから、仏教が無我説であることが論理的に示される、と考えるのである。(松本史朗「解脱と涅槃」『縁起と空 如来蔵思想批判』1989,所収p.201)
宮本博士のスタンスとは、大違いである。ともあれ、事は重大であるので、結論は控えて
おくのがよいだろう。


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