新インド仏教史ー自己流ー

その3
さて、インドでは、何かを主張する際には、必ず、論証しなければなりません。説一切有部は、その証拠として、こういう論証を行います。1.過去・未来の対象を認識することが可能である。2.認識される対象は必ず、実在する。3.故に、過去・未来の対象は実在する。こうして、一応、論証されているわけですが、素直に納得出来かねます。梶山雄一氏は、以下のように、述べています。
 現代の我我の多くのものにとって、過去に見た書物をいま認識している、ということは記憶の問題であって、記憶があるからといって、その対象たる過去の書物が今も存在していることの証明にはならない。・・・記憶や推理の対象も現に実在することを証明することはできない。・・・しかし・・・有部の立場を理解することとは別問題である。有部は、我我の認識の中にある表象(ひょうしょう)を観念であるとは考えない。・・・知識が形象(けいしょう)を捉えていれば、その形象をもっている対象が、知識とは別に存在しなければならない。過去の対象が認識されていれば、それは過去の対象が現に存在している、ということである。(梶山雄一『仏教における存在と知識』1983年、pp.26-27、ルビ私)
説一切有部は、感覚的な知覚と記憶や推理を区別しません。同じ認識であって、そこで認識されている対象には、同じ存在性が付与されるのです。それを崩す理論を見出したのが、シュリーラータです。説一切有部は、根・境・識、すなわち対象・感覚器官・認識が同時存在でなければ、物を認識するという行為は成立しないと考えます。その図式に従って、まず、知覚の構造を決めます。それから、今度は、記憶・推理に当てはめるわけです。3者が、同時存在であるという図式を破壊すれば、三世実有説は崩れます。シュリーラータは、対象と感覚器官は、第1瞬間にあって、それを認識するのは第2瞬間であると考えました。そう考えると、根・境・識の同時存在性は崩れますし、ひいては三世実有説も足元をすくわれます。どちらが正しいとは言い切れませんが、こうした議論が延々と続いていたのです。このような理論と理論でディベートするのは、インド人の大好きなことなのです。そして、通称、仏教論理学というインド中を席捲(せっけん)した学問を生み出していきます。それに触れてみましょう。

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