Tips of Buddhism

No.13
Buddhism did not at any time believe anything to be permanent.With the development of this doctrine they have great emphasis to this point.Things came to view at one moment and the next moment they were destroyed.Whatever is existent is momentary.It is said that our notion
of permanence is derived from the notion of ourselves,but Buddhism denied the existence of any such permanent selves.
(S.Dasgupta;A History of Indian Philosophy,vol.1,p.161)

(訳)
仏教は、どんな時も、如何なる常住(じょうじゅう)なるものも信じなかった。この教理が進展するにつれ、この点は、すこぶる強調された。ある刹那、現れてきたものは、次(じ)刹那(せつな)には滅する。何であれ存在するものは、刹那滅(せつなめつ)である。常住の概念は、我の常住の想いに由来する。だが、仏教は、そんな常住の我の存在は否定する。

(解説)
ここに出てきた「刹那滅」は、「諸行無常」に直結する。『平家物語』に謳われる「諸行無常の響きあり」は、誰でも知っているはずだ。日本人には、血肉化しているような「諸行無常」や「刹那滅」は、インドではそう簡単に受け入れられなかった。というより拒否された。インド人の大多数は、アートマン(atman)即ち漢訳の「我(が)」を不滅の自己と見なした。結果、
仏教はインドを去ることになる。だが、それまでの期間、インド仏教は、膨大な時間と労力を使って、「諸行無常」や「刹那滅」を論証しようとした。1例を出してみよう。『倶舎論』という書物には、前に言及したと思う。そこでは、「物が滅するのは、無原因である」という有名な論証がある。これが、はたして、論証と言えるかどうかは別として、これは「滅(めつ)無(む)
待因(たいいん)」論証と称せられ、彫琢(ちょうたく)を極めていくのである。
さて、この論証というのが、インド仏教の肝心なところである。文字通り、「論証学」が異常発達して、その姿は、日本などの仏教とは、まるで違う。これを古い呼び方で「因明」(いんみょう、ヘートゥ・ヴィドヤーhetu-vidya)と言う。三蔵法師として有名な玄奘は、この因明を最先端の学問として中国へ持ち帰ったが、中国・日本ではあまり受けがよくなかったらしい。それをよく示している、ある心理学者の文章を引用しておこう。
 以前、玄奘三蔵の伝記をよんでいて一つ気づいたことがある。彼はインドから「因明」とよばれる仏教の論理学(弁論術の性格もある)を中国に伝えたのだが、中国の仏教界では、そんなものは仏教にとって小事にすぎないとして相手にされなかったという。(湯浅泰雄「身体の宇宙論」『湯浅泰雄全集』第十五巻 心身論(II),2012,p.252)
以前にも因明への対応の違いには触れたことがある。同じ仏教とは言いながら、彼我(ひが)の違いに気付いてもらえると、面白いと思う。
 ついでに、著者のダスグプタにも触れておこう。彼は、宗教学の伝説的存在、エリアデ(M.Eliade,1907-1986)の師である。エリアデは、インドのマハラジャの奨学金を受け、4年間ダスグプタの下で、学んだ。ダスグプタの娘と恋に落ちたが、ダスグプタに反対され実らなかった。後に、エリアデは、これを小説として書き、大評判を呼んだ。近年、宗教学に関心を抱き、研究する方も多い。このような雑学も頭に入れておくのも無駄ではないだろ
う。

 


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