仏教余話

その119
ともあれ、この『大乗起信論』に対する評価は、著しく高く、平川博士もこう絶賛している。
『大乗起信論』は仏教の書物の中では、最も哲学的な書物である。原担山が明治十二年に東京大学の講師になったとき、「印度哲学」として講じたのが本書であった。仏教の書物の中で哲学的な書物を挙げるとすれば、まず本書に指を屈するのである。(平川彰『仏典講座22 大乗起信論』昭和48年、p.1)
更にインパクトの強い指摘も紹介しておこう。石井公成氏は、先に触れた講演で、以下のようにいう。
 〔『起信論』を奉ずる者のうち〕過激派は『起信論』のような如来蔵説にとどまっていなかった、ということです。彼らの主張は「拝自体仏説」です。…この説は「仏像を拝む必要はない。現在いる仏、つまりお釈迦様だとか、阿弥陀仏だとか、薬師仏は他人の仏にすぎない。自分に一番親しいのは、自分が将来なる仏だ。その将来なる仏をめざして修行するのだから、自分を導くのは自分がなる将来の仏だ。その将来の仏は、法身として自分の中にあるのだから、拝むなら自分の中の仏を拝め」というのです。(井公成「近代日本における『大乗起信論』の受容」 龍谷大学 アジア仏教文化研究センター2012年 度第10回 全体研究会 発表原稿、pp.82-83)
随分と過激なアナーキーな思想である。

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