仏教余話

その32
また、宮本博士は、次のような示唆的な意見も陳述するのである。
 〔インドの〕伝統的知識人のなかでもエリートである哲学者の頭のなかには、文法学に由来する公理体系志向が重要な位置を占めることとなった。したがって、数あるインド哲学の体系は、程度の差は多少あるにせよ、おしなべて公理体系志向が強い。西洋哲学では、分析一辺倒の公理体系というよりも、それに反しがちな、分析と総合をくり返していく弁証法的な発想が顕著であるのにたいし、インド哲学には弁証法的な発想は希薄であり、哲学体系間の論争は、徹頭徹尾、公理体系どうしの正面切ったしのぎあいという様相を呈する。(宮元啓一『インド哲学七つの難問』2002,pp.19-20、〔 〕内は私の補足)
正直なところ、インド論理学、仏教論理学の実態は、未だ、謎といってよい。桂博士・宮本博士・石飛博士にしたところで、自分が専門的に、読んできた文献から、類推したことを述べているに過ぎない。1昔前は、最先端の記号論理学で、インド論理学を解明しようとするような研究も流行った。しかし、西洋的な発想法とは、まるで、異なっていると見た方がよい。インド人は、一面では、西洋人より、遥かに、シヴィアで、現実的である。その彼らの操る論理学とは、昨今、世界を席巻しているヴァーチャルと似ていて、現実界をも変更する力を持つ実効性の高いものだと思われる。ただ、上のどの研究者も、触れていたように、インド文法学の重要性は、認識しておくべきであろう。私自身、その方面には疎いのであるが、文法学がわかれば、従来の仏教理解なども一新するであろう。
 

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