仏教余話

その15
さて、オルコットに同行したダルマパーラは、来日の1年後、明治23年(1890年)釈興然などを伴い、釈迦が悟りを開いた聖地ブッダガヤに赴く。当時、そこはシヴ ァ神の聖地となっていて、異教徒が支配していた。ダルマパーラは、この地を仏教徒の手に取り戻すことを誓う。日本も彼の意志を受け、「印度仏蹟興腹会」が設立され、多くの寄付金も集まり出す。ダルマパーラも、明治26年(1893年)再度、来日して、この運動を説いて回る。彼は、この運動などを通じて、スリランカの仏教を代表するようなカリスマに成長していくのである。そして、次第に、オルコットと対立するように
なって、最後には決別する。ダルマパーラは、明治35年(1902年)に、3度目の来日をはたす。この時点で、彼は、国際的に活躍する仏教者として知られていた。そして、単なる仏教活動家の域を超えた、近代アジア独立運動のリーダーとも目されていた。彼は、仏教ナショナリズム「国体運動」の推進者である田中(たなか)智学(ちがく)とも会見している。田中智学は、当時の憂国青年に熱狂的に支持され、満州事変を起こした石原莞(いしはらかん)爾(じ)などにも影響を与えている興味深い人物である。法華経を中心とする日蓮教学をベースにした国家改造を目指したのが、田中智学である。
 ダルマパーラは大正2年(1913年)何と、4度目の来日を敢行する。この時は、彼の来日は歓迎されなかった。理由は大正という時代にあったのかもしれない。明治の宗教運動など、最早、何の感銘も与えないような冷めた時代になっていたのである。価値は相対化され、ダルマパーラの仏教運動などは、やぼったいものに見えたのであろう。
 ダルマパーラと日本との縁は、最後には薄くなったように思えるが、彼自身は日本に対する信仰のような期待を持っていたようである。
 オルコットは明治40年(1907年)死去する。そして、ダルマパーラは昭和8年(1933年)死を迎える。以上、簡単に、近代仏教の裏面史を辿ってきた。あまり、皆さんもご存知なかったようなことも多いかと思い、同時に、私自身も興味はあるものの、語るほど知らなかった事象を述べてみた。詳しく知りたい向きには、佐藤哲朗『大アジア思想活劇』(サンガ2800年)がある。私の話は、これを要約したものにすぎない。神智学協会、オルコット、ブラバツキー、ダルマパーラ、そして近代日本の仏教者、そのどれもが興味をそそるテーマである。漱石の生きた明治の仏教界は、今、概観したような不思議な世界だったのである。この他にも、興味あることが沢山ある時代であるが、それは、追々、説明していこう。最後に、この裏面史の主人公、オルコットの人と成りを簡単に見てみよう。彼の伝記として、ステファン・プロテロ(Stepen Prothro)著『白い仏教徒』White Buddhistがある。その扉の紹介文を引用しておこう。
 ニューヨークタイムズは彼を「正真正銘のいたずらっ子」と揶揄した。他方、人々は彼をアショーカ王の生まれ変わり、仏陀自身の生まれ変わりと評した。彼とは、オルコットのことである、彼は、神智学協会の創設者ブラバツキー夫人の友人でもある。本書は彼の魅惑的な精神的旅物語を綴るものだ。19世紀のニューヨークで長老派を立ち上げてから、ヨーロッパ系アメリカ人として、初めて、仏教に改宗する前には、オルコットは降霊術や神智学を奉じていた。キリスト教を否認したけれども、清教徒の「荒野への使い」とプロテスタント伝道の「世界への使い」をオルコットは拡充した。オルコットは自分を伝道に抗するアジア宗教の保護者と看做していたが、彼の行為は伝道の反映だった。彼は著作し、小冊子や教理問答に寄与した、聖典を様々な言語に訳すことを企画し、日曜学校を作り、ボランティア協会を創設し、復興したのである。彼は、また、禁酒や婦人権等の社会改革に関心を抱くように勧めて、アジアの隣人を高揚させた。人は彼の仕事を冷ややかに見るが、彼の伝説は続いている、今日、スリランカではシンハリ仏教復興のリーダーとして敬われているし、インドではインド・ルネッサンスのキーになる寄与者として尊敬を集めているのである。


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