「倶舎論」をめぐって
VI
さて、この「二諦」(=部分と全体)の問題は、根が深い。後代の仏教では、外道のアートマン説を信奉する者として、蛇蝎(だかつ)の如く嫌われた「犢子部(トクシブ)」(Vatsiputriya)の再評価にも繋がっていくのである。実は、伝承では、ディグナーガは、犢子部で出家したとされている。彼には、最後まで、犢子部的要素が残っていた可能性もあるのだ。服部正明氏は、こう述べている。
ディグナーガと犢子部(トクシ部)との関係ははっきりしない。〔チベットの仏教史家〕プゥトンやターラナータは、ディグナーガが、どのように、犢子部の教義を嘲笑したかという逸話を伝えている。ある日、ディグナーガは、服を脱いで、プドガラを探すために四方で火を焚いた、プドガラとは、身体の構成要素〔五蘊〕と同一でもなく異なったものでもない実体として犢子部が認めたものである。プドガラを見つける代わりに、師を怒らせただけだった、間もなく、彼は、犢子部を離れた。しかし、ディグナーガの著書には、犢子部に対する反論はみつからない。この部派は、世親の『倶舎論』9章で批判された。ディグナーガは、この世親の著作の綱要書、すなわち、『倶舎論 要義灯論』を作った。始めの8章では、ディグナーガは、世親の中心的議論に順じている、付随的な議論を扱う部分、他学派の理論や他のテキストの単なる引用を除いてであるが。しかし、9章では、世親の大部分の議論を省いている、それは犢子部のプドガラ批判についての議論である。そして、何ら本質的でない議論を再現している。もしディグナーガが、犢子部に属していて、後にそのプドガラの教義を捨てたのなら、彼は、もっとこの部派の教義の欠陥を指摘するのに真剣であるはずだ。プドガラ批判は、ディグナーガの学流に属すシャーンタラクシタの『真理綱要』にも見られるが、ディグナーガの見解に触れることはない。(M.Hattori;Dignaga, on Perception,Cambrige,Massachusetts,1968,p.2、〔 〕内私の補足)
ディグナーガの『倶舎論』注には、また、後で触れる。とにかく、犢子部批判に際してのみ、彼の歯切れの悪さが目立つ。このことは、櫻部氏も、指摘している。
ところで、興味深いことに、最後の〔第9章〕破我品だけは右に述べたような〔世親に忠実な記述の〕仕方に従っていない。そこでは原倶舎論破我品の八分の一程にまで縮められ、その摘要の仕方も、本論の論述の本筋を追って忠実にabridgmentを作したというのではなくて、原破我品に論ぜられている多数の論点の中で特に興味を引く数個の問題だけを採り出して並べ挙げているもののように見える。(櫻部建「陣那に帰せられた倶舎論の一綱要書」『東海仏教』2,1965,p.35,〔 〕内私の補足)
私の予想としては、ディグナーガから犢子部的要素は消え去っていない。犢子部は、世親の「分析至上主義」に抵抗し、部分と全体の「相互補完主義」を提唱した節がある。その考え方がディグナーガ経由で、ダルマキールティに受け継がれたかもしれない。上で見た『量の大備忘録』の1節は、そのような推測さえも可能にしてくれそうである。今は、遺憾ながら、詳しく述べる能力もないが、全インド思想界の潮流は、むしろ、「全体」を尊ぶ傾向にあった。インド思想の本流中の本流、文法学派(Vyakarana)の重鎮(じゅうちん)、バルトリハリ(Bhartrhari、5世紀頃)の考え方を、清島秀樹氏は、以下の如くまとめている。
〔バルトリハリに〕極めて頻繁に現れる一つの発想がある。それは「部分は全体の基盤ではなく、全体が部分の基盤である」とする発想である。少し形を変えれば、「全体が真の実在であり、部分は実在ではない」となる。…その基本骨格は〈全体―部分〉関係に他ならない。そして、〈部分〉は、それが感覚器官であれ単語であれ、〈全体〉を離れて単独に存在し得るものではなく、常に〈全体〉に依存して存在する、というのが彼の考え方である。(清島秀樹「バルトリハリの言語哲学」『岩波講座 東洋思想 第七巻 インド思想 3』1989,pp.110-113、〔 〕内は私の補足)
ここでは、当然、「分析至上主義」など傍流(ぼうりゅう)である。当時のインド思想界において、犢子部は仏教と非仏教の中間的位置にいたと推測される。仏教からは、完全に閉め出された観がある。しかし、かといって、それをマイナス・イメージだけで、評価してはいけないと思うのである。多少、専門的な説明に成り過ぎたようだが、とにかく、『倶舎論』研究が仏教論理学研究や犢子部再評価の布石になることを認識してもらえば、よいのである。ここでは、犢子部が、具体的にどのような主張をしていたのか?そして、それをどう批判したのか?ということを『倶舎論』第9章「破我品」atmavadaprtisedhaから、1部抜き出してみよう。少し、長いが、この手の議論に慣れるために、原文の拙訳を次回に示しておく。