仏教余話

その124
それはともかく、原担山という若干無鉄砲にさえ見える、禅僧について、の忽滑谷快天が、いかにもというようなエピソードを伝えているので、紹介しておこう。
 井上円了始めて海外に遊学せんとす、友人数輩送別の宴を張る、席上原担山島尾得菴相会す。担山突如としていわく「このごろ本心を失ったやつがあるそうだ」。得菴いわく「それならだれか拾った者があるだろう」。担山「おれが拾ったのよ」。得菴「拾ったら落とし主に帰すがよかろう」。担山「いや、まだ警察へ届けてないから、届けて後の事にしよう」。一座哄笑す。評にいわく、正念相続の工夫を打失す。これすなわち本心を失うなり、すなわち自家の無尽蔵を失うなり、壺中の乾坤を失うなり、一たび本心を失えば九天の上に住すといえども下界の苦痛を免れず。これに反して、本心の光明を失わざれば九地のもとにありといえども天上の歓楽をうく、富貴栄達もまたもってこの楽しみに代うるに足らず。乞食長者一茶翁歌うていわく
          紅葉葉のちりしく山にまろねして
            われも錦を身にまとうかな
(忽滑谷快天『叢書『禅』11 和漢名士参禅集』昭和53年(原本大正4年)、pp.5-6)
原担山の人物像が、浮かんでくるような逸話である。


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