「倶舎論」をめぐって

 IX
さて、以上、何故、『倶舎論』に着目するのか、という点を掻い摘んで、示してみた。私は、現在の関心に沿って話している。そのため、一般的な概説書とは、かなり、趣きが異なる。『倶舎論』に関連する概説書などに目を通したことがある方がいれば、不信感を抱くかもしれない。しかし、概説書の類いは、自分で読めば事足りる。本授業は、あくまでも、大学の演習として、他では、聞けないようなことを、敢えて、述べるようにしているので、通説的なことは、各自で、確認してもらえば、有難い。
ここで、当の『倶舎論』に話しを絞ろう。実は、他にも、確認しておくべき噂めいたことはある。近代仏教学の創始者の1人であろう木村泰賢は、『倶舎論』にも造詣が深く、その種本となったのが、法救の『雑阿毘曇心論』であることを、初めて、論証したのも木村泰賢である。一昔前の大学者と見て、間違いはない。この時代の学者は、今と比較にならないほど、漢訳文献に通暁していた。その知識が、現代の我々には、ピントこないこともままある。木村は、口を極めて、『倶舎論』を賞賛するが、その言葉の中にも、最早、我々には、その出典がわからないものもある。以下に、その部分を引用してみよう。
 かく、婆沙論以後、これを中心として種々の論書の輩出した中で、種々の点において最も顕著なものは、いうまでもなく、世親の倶舎論である。一方には飽くまでも大毘婆沙の精要を尽窮的に紹介し論究する態度を取りながら、他方においては、また、大毘婆沙の排斥した犍陀羅派や譬喩師、すなわち経部にも敬意を払い、いわゆる「理長為宗」を旨とし、しかもこれを表わすのに整然たる組織と謹厳なる文体を以ってしたところ、千歳の下、なお人をして嘆美、措く能わざらしめるものがある。…そのいわゆる「理長為宗」の精神は大毘婆沙が、種々の論書を籍りて発智を盛り立てようとしたところに契うものがある。(木村泰賢「倶舎論述作の参考書について」『木村泰賢全集 第四巻 阿毘達磨論の研究』昭和43年、所収、p.216)
ここに「いわゆる「理長為宗」」というフレーズが2度出てくる。何となく、意味はわかる
が、はっきりはしない。が、ごく当たり前に使用されているようなので、有名な言葉であることは推測出来るものの、現代の我々には、馴染みのない言葉である。この由来も等閑にはしかねる。そこで、大蔵経データベースを使って、検索してみようと思う。検索すると、1件のみヒットした。湛慧の『阿毘達磨倶舎論指要鈔』という注釈に、「理長為宗」は2箇所続けて、登場する。作者の湛慧は、字で信培という名の江戸時代の僧侶らしい。『阿
毘達磨倶舎論指要鈔』で検索すると、簡単に事跡の紹介がある。私は、残念ながら、この辺りの研究状況に疎く、信培という名も、『阿毘達磨倶舎論指要鈔』の存在も最近知った。
古い仏教辞典である『仏教大辞彙』(1914年)には、「入文解釈頗る詳細にして論議穏当なれば倶舎論研究の好参考書なり。」(p.832)とある。最近、湛慧に関する面白い情報に触れたので、紹介しておこう。大分、昔の『倶舎論』学者に船橋水哉という人がいる。伝統的倶舎学の泰斗である。その船橋博士に、研究の日々を綴った「倶舎を漁る記」という好エッセイがある。その中に、湛慧の墓を探索する記述があった。非常に面白いので、紹介し
ておこう。
 湛慧は指要鈔の著者で、普寂の師匠である。指要鈔には普通奥書はないが、或る一本に、
   洛陽西郭、御室長時院、湛慧律師、所抄記也。
 とあるので、長時院を探り出さうとしたのである。然るに今度はからずも其を見出したので、私は非常に愉快に感じたのである。…〔湛慧の墓には〕御花も上って居らねば、参詣する人とて一人もない。又此を管理する人もないらしい、さりとて浄土宗たるもの、あまりに不行届ではあるまいか。当年の湛慧律師、現今のあの墓の状態、誠に今昔の感に堪へられず、知らず念仏数編、口の中で称へさせて貰うたことである。(舟橋水哉「倶舎を漁る記」『倶舎の教義及び其歴史』昭和15年所収、pp.259-261,〔 〕内私の補足、1部現代語表記に改めた)
とにかく、大蔵経データベースに頼った限りでは、「理長為宗」の出典は、『指要鈔』のみである。そこには、以下のようにある。
 〔中国の著名な注釈『倶舎論記』において〕普光はいう。「〔『倶舎論』は〕理屈に依存することを第1とする。〔部派に〕執着することは、明らかにない」と〔やはり著名な注釈『倶舎論疏』において〕法宝はいう。「だから、ここ〔『倶舎論』〕には「理長為宗」〔理屈を重んじることを第1とする〕がある」と。1部派に決まっているのではない。普光・法宝の両先生は、〔『倶舎論』は〕1部派に帰属せず、自ずと「理長為宗」と言っている」とする。故に、「この〔『倶舎論』という〕論は、諸部派の長所を、総合的に集め、以って、〔その〕論の旨としている」ことがわかる。
 光云。據理為宗、非存明執。宝云、故知、此中理長為宗、非定一宗。光・宝二師、不属一宗、自言理長為宗。以此故知、此論総集諸部之長以為一論野宗。(大正新修大蔵経、No.2250, 『阿毘達磨倶舎論指要鈔』811b/26-29)
ヒットしたのは湛慧の『阿毘達磨倶舎論指要鈔』だけであった。しかし、同注釈が典拠としているのは、普光の『光記』と法宝の『法疏』であったのに、その2つは検索にはかからない。不思議なことだと思っていた。その後、機会があって、『光記』と『宝疏』を目にしたところ、以下のような記述があった。
 説一切有部の宗旨を述べるのだけれど、時々経量部によって、これを訂正する。〔世親〕論師は、理屈に依存することを第1とする(據理爲宗)。部派に偏ることはない。
 雖述一切有時ゞ以經部正之。論師據理爲宗。非存朋執。(『光記』舟橋水哉『仏教体系 倶舎論第一』大正9年、p.1,ll.5-6)

注釈中ただ理屈が勝っていることを第1とする(以理勝爲宗)。1部派に偏ることはない。
 長行中唯理勝爲宗。非偏一部。(『宝疏』舟橋水哉『仏教体系 倶舎論第一』大正9年、p.13,l.14)
「理長為宗」は、両注釈においてそのままの文言ではなかった。しかし、趣旨は「理長為宗」である。
これは、まだ、出典がわかったからよい。先に、登場願った、櫻部博士も、以下のように、この語に触れている。
 古くから倶舎学者の間で論じられてきた「部宗の摂属」〔『倶舎論』は、どの学派に属するか〕という問題がある。『〔『倶舎』論』は、ときにはただちに経量部の書と見做されもしたし、あるいは「理長為宗」(理の長ずるを宗と為す)と見られもしたのである。(桜部建『仏典講座18 倶舎論』昭和56年、p.36)
ここに出典は明記されていない。しかも、若干の事実誤認もありそうである。言葉が1人歩きしているのである。綿密な学風を誇る、櫻部博士にしてそうなのである。以って瞑すべしである。こうして、典拠は、何となくわかったものの、その意味するところは、判明していない。私は、「理長為宗」=「分析至上主義」と予想しているが、十分な証明が出来ているわけではない。それもこれも、私が、古来から続く伝統的『倶舎論』研究に暗いせいである。

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