新インド仏教史ー自己流ー

その5
最後に、唯識に魅せられてもう1人の文人に触れておきましょう。明治の文豪(ぶんごう)、森(もり)鴎外(おうがい)(1862-1923)もその1人です。鴎外は、小倉に赴任します。その時代の彼の勉強の様子が、伝えられています。小倉には、玉水俊交虎(たまみず・しゅんこ)という学僧がいて、鴎外に唯識を講じたようです。玉水俊交虎は、本学の前身である曹洞宗(そうとうしゅう)大学(だいがく)林(りん)に入り、さらに、大谷(おおたに)大学(だいがく)で唯識の研鑽(けんさん)を積みました。玉水に関する詳しい論考があるので、紹介しておきましょう。山崎氏は、先ず、以下のように、鴎外の小説を皮切りにして、諭を始めています。
 「私は無妻(むさい)で小倉へ往(い)つて、妻を連れて東京へ帰った。しかし私に附(つ)いて来た人は妻ばかりではなくて、今一人すぐに跡(あと)から来た人がある。それはまだ年の若い僧侶で、私の内では安国寺(あんこくじ)さんと呼んでゐた。安国寺さんは、私が小倉で京町(きょうまち)の家に引き越した頃から、毎日私の所へ来ることになった。私が役所から帰つて見ると、きつと安国寺さんが来て待つてゐて、夕食の時までゐる。此間(このあいだ)に私は安国寺さんにドイツ文の哲学入門の訳読をして上げる。安国寺さんは又(また)私に唯識論の講義をしてくれるのである。安国寺さんを送りに出してから、私は夕食をして馬(ば)借(しゃく)町(まち)の宣教師(せんきょうし)の所へフランス語を習(なら)ひに往(い)つた。(「二人の友」大正四・六)
 この小説で安国寺さんと呼ばれている僧侶は、太平山(たいへいざん)安国寺(あんこくじ)の玉水俊交虎(たまみずしゅんこ)である。鴎外は俊交虎のために独逸(どいつ)語(ご)及び独逸哲学を講じ、俊交虎は鴎外のために唯識を講じた。(山崎一頴「玉水俊交虎―鴎外ゆかりの人々 その四―」『評言と構想』1979,p.5、ルビ私)
意外なことに、駒澤大学にゆかりのある僧侶に唯識を学んでいたのです。実は、鴎外は玉水俊交虎に、本格的に唯識を学ぶ前に、ハルトマン(E.v.Hartmann、1842-1906)という哲学者の影響を受け、ハルトマンの『無意識の哲学』Philosophie des Unbewassten さらに、大村西崖(せいがい)との共著で、ハルトマンの『美の哲学』Philosophie des Schoenenを『審(しん)美(び)綱領(こうりょう)』と名付け、訳しました。その序文には「僧佉論師(そうほうろんし)の執(しゅう)計(けい)に較(かく)似(じ)ありと雖(いえど)も、談(だん)理(り)多くは相宗(そうしゅう)大乗(だいじょう)の玄(げん)旨(し)に同(どう)帰(き)す」などと難しいことを述べています。簡単に現代語訳して
みましょう。こうなります。
 インドのサーンキヤ学派の思考法によく似ているが、内容のほとんどは、仏教の法相宗(ほっそうしゅう)〔中国版唯識〕の奥義(おうぎ)に帰す。
鴎外は、サーンキヤ学派と唯識はとよく似ていると述べています。的確な理解であると思います。
 日本の作家から始めて、日本の作家で終わるインドの唯識の話は、奇妙に見えると存じますが、少し変わった切り口で論じてみました。

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