仏教余話

その208
この惜しまれて亡くなった学者の最後の様子だけ、簡単に伝えておこう。師シチェルバツキーの記録からである。
 ユデニッヒ将軍によるセントペテルスブルグ包囲の最中、ローゼンベルグは、からくも、セントペテルスブルグを脱出した。そして、この軍の退却時に先ず、エストニアに避難し、更に、フインランドに避難した。そこから、アメリカ経由で日本に行こうとした。そうすれば、彼の仕事が続けられるはずだった。この難局の結果、彼は猩紅熱にかかり、1919年11月26日に死去した。彼の最後の時間について、未亡人は私に次のように書き送ってくれた。「彼は、ほとんどベッドに寝たきりでしたが、健康を回復すると固く信じていました。そして、東京に手紙を認めていました。医者が匙を投げた時にも、外国の新聞を読んでおりました。最後は、全く苦しみませんでした。」(K.Kollmar-Paulenz,J.S.Barlow:Otto Ottonovich Rosenberg and his Contribution to Buddhology in Russia,1998,Wien,p.56)
近時、ローゼンベルに対する評価は高い。例えば、彼の著書を邦訳した佐々木現順博士は、そのあとがきで、こう述べている。
 原書が初めてロシヤで出版された頃の我国の学界をかえりみる必要がある。その頃の学界―私の経験する領域内であるがーはまだ漢訳中心であり、而も、伝統―我国だけのーに従って、アビダルマ仏教を研究しており、その研究も仏教術語の基礎的知識を了解させるためという全く手段的役割しか持たされていなかった。その頃、若き学徒の思想的憧れをみたしてくれる著書は微々たるものであった。仏教に限らず、思想を求め、人生の根本問題を追求しようとする者は所詮、外国文献を通して、仏教をみなおそうとした
のではなかったかと思う。…本書は学問的息吹きと魂をこめた珠宝であると信ずる。…現代に於ても、文献的にも哲学的にも本書ほど着実な方法論を以って書かれている仏教書は決して多くはないと信ずる。…以上の理由で、碩学の名著たる本書は現在、なお欧米諸学者により頻繁に用いられ、常に新しい曙光を与え続けて来た。」(佐々木訳本、pp.309-311)これが書かれたのは、1976年である。
また、ヨーガの解説で散々、登場願った立川武蔵博士も、「『倶舎論』におけるダルマについて(一)」(『愛知学院大学禅研究所紀要』34,2006,pp.119-133)という論文において、ローゼンベルグの法(dharma,ダルマ)理解を、もろ手を挙げて、賞賛する。更に、西村実則『荻原雲来と渡辺海旭 ドイツ・インド学と近代日本』2012という著書では、pp.226-253において、ローゼンベルグを取り巻く、当時の状況が描写され、彼は、やはり、高く評価されているし、湯山明「Misellanea Philologica Buddhica(V)」『創価大学国際仏教学高等研究所年報』10,2006,pp.39-40でも、その評判はよい。しかしながら、このような賛美の声が、当初から、あったのではない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?