「倶舎論」をめぐって

LXXXXIII
以上のような諸労作の刊行せられて行った年そのほかに亙っての倶舎学に関する研究業績は、その他にも固よりそれを枚挙することができる。綱要書、註解書、及び教義に関する個々の問題の論攷などは且らくそれを措いて、倶舎論本文に関するものだけでも故荻原雲来師と木村泰賢博士とによってなされた国訳大蔵経中の倶舎論、西義雄博士の労作である国訳一切経中のそれ、東北大学の「文化」第四巻と第五巻に掲載せられた倶舎論本頌(界品)に関する山田龍白博士の業績、故寺本婉雅師の許でプリントで刊行せられた倶舎論界品及び根品のチベット訳本文などがある。また一九三五年には、ラーフラ・サーンクリティヤーヤナ(Rahula Samkrtyayana)氏によってチベットのゴル(Ngor)寺院で倶舎論本頌及び釈論の梵本写本が発見せられ、サーンクリティヤーヤナ氏は本頌に従って釈論が展開されていく、いわゆる本論という態の梵本を出版した(1933)。また近頃プーナのゴーカレー(V.V.Gokhale)氏は本頌のみを刊行した(The Text of the Abhidharmakosakarika of Vsubandhu,reprinted from the Journal of the Bombay Branchi,Royal Asiatic Society,N.S,Vol.22,1946)。しかし、倶舎論の本文に関する労作としての主なるものは、ゴーカレー氏も、その刊行の序論に述べているように、プーサン教授のフランス訳倶舎論と荻原雲来師の称友註釈梵本の刊行とである。昭和七年、梵文倶舎論疏刊行会から、称友倶舎釈梵本の第一分冊が刊行せらるるや、荻原雲来師は逸早く、それの訳註「和訳称友倶舎論疏(一)」を出版せられた(昭和八年)。この称友倶舎論疏に対する訳註の刊行は、先に関説したシルヴァン・レヴィ教授の提案によって計画せられた九項の中の第七項が実現せられずにあったものを、称友梵本註釈の校訂出版者荻原雲来師の手によって、実現完成しようとせられた意図のものと解してよい。その第一分冊には、界品第一に関する部分が収められた。継いで、私がその和訳註の事業に参画することになり、荻原雲来師と私とが共訳註者となって、第二分冊は昭和九年に、第三分冊は昭和十四年に刊行せられた。第三分冊については、船橋一哉、長尾雅人氏の強力を得ることにもなった。その第二・第三の両分冊をもって、根品に関する部分までが終了した。そして昭和十二年冬、荻原博士が他界せられて以後は、私が主としてその業を継続することになった。そこで舟橋一哉氏の協力を得て、第四分冊「世間品」に関する訳註の原稿は、完了するに近い程度まで出来てあったのであり、また、刊行会の運営を終始担当せられた友松圓諦氏の異常の配慮努力もまされたのであったが、時勢はすでにそれの刊行を許さぬ状態であった。かくしてその訳註の事業は中絶したままになって十七年を経過した。…近時、よりより友松圓諦氏から、和訳称友倶舎論疏続刊のことについて慫慂されることもあり、私の手許では上に述べた如く世間品に関する原稿が略々完成していたのではあったが、しかしそこには直ちにそれを遂行し得ない若干の事情があった。先ず、荻原博士によって開始せられてあったその和訳註は、その原本の校訂出版のされ方から見ても、その称友釈論の解釈する倶舎論本論が、玄奘訳倶舎論ででもあるかのような予想の上に立ち、そういう形態の本論に対する称友の訳註という意味に扱はれている跡があった。玄奘訳というものが伝統的にも倶舎論の定本として依用せられ、プーサンのフランス訳にも、玄奘訳(佐伯旭雅本)の丁数まで欄に誌されているのであるから、一般的には本論の形態を玄奘訳というものの上に規定してゆくことは尤ももである。しかし称友の解釈が、玄奘訳どおりの本論を解釈したかどうかは疑問である。事実、倶舎論の本文形態を吟味して行くときには、玄奘訳よりも真諦訳の方に原典的形態の著るしいものが縷々見出されることもあり、チベット訳が真諦のそれに合致する場合も縷々ある。ここに於て、称友が釈するところの倶舎論の本論というものを、チェルバツキーの言う如く、一応、’a most accrate mirror of the original text’〔オリジナルテキストの最も正確な反映〕であるチベット訳の上に認め、玄奘真諦のそれとを比較し、称友釈論の文章を考慮して倶舎論の本文形態を規定してゆくということが、差し当たり取らねばならぬ仕方である。しかるに倶舎論の本文を引用しつつその全巻に亙っての註尺が施されているのは、称友の註釈だけでなく、チベット蔵経中に収められている満増のそれも、はたまた安慧の実義疏もそうである。それ故に本文を規定し、本文を読解するためには、称友の釈論と共に、インド撰述であるチベット訳のその二註釈をも参照せねばならない。私は約三十年前、大谷大学で倶舎論世間品の講読をしたとき、そういう方法で世間品の本文を読解したのであり、その後舟橋一哉氏もまたそういう方法で、世間品の本文を批判的に研究し、近くは業品本文も扱はれたのであった(大谷学報二十一・二巻所載の論文、並に同氏「業の研究」後篇参照)。そして、そのようにして規定せられ、読解せられた本論文こそが、まさしく称友註釈の註釈した本文であるべきであるから、称友倶舎論疏の和訳が刊行せられるに当っては、先ず称友の註釈する当の本論文の和訳が提示せられ、そういう本論文に従って展開せられて行った称友註釈文の和訳が与えられるべきである。そういう本論文に対する和訳が与えられずして、単に註釈に対する訳文だけが示されたるということは、その本文がどういう態のものであるかが確実に示されていないという点に於て、註釈の和訳文を刊行するについて、まだなすべき手続きがなし盡されていないという恨みがある。私は、世親の成業論や唯識二十論及び三十論の註釈を和訳し刊行し得た経験からして、当然そういう手続きを経るべきであることが知られたのである。凡そ註釈文というものが提示せられるに当っては、何時の場合でも、そういうように所釈の本文と共に註釈文が与えられねばならぬものであると考えられる。そして、そのように、本論の文章とそれの註釈とが示されるについては、その註釈に従って、本論の文章が科段せられて、それぞれの科段せられた文章に対してその内容を端的に表示する章目・科目が附せられるべきである。それも先の成業論や唯識両論について行われたのと同様であるべきである。ゴーカーレー氏の言葉遣いを用いるならば、凡そ’civilized world’〔文明化された世界〕に対して提示せられるためには、称友の和訳註に対しても、それだけの手続きを経ねばならぬのであろう。それによってまた、称友註釈の梵語原文の校訂の上にも、補訂せらるべきものが見出され、かたがた梵語原文の校訂により完璧なものが期せられるからである。今、刊行の運びとなった「倶舎論の世間品」は、少くともそれだけの手続きを経て脱稿せられるに至った。しかるに、少くともそれだけの手続きを経て仕上げるに至ったものを印刷面に表示するとなると、それは印刷上非常に面倒な組版を要することになり、現在の情勢下に於ては、それを倶舎論疏刊行会に委ねることも困難と思われる節があったので、茲に文部省科学研究費の研究成果刊行費の助成を申請して、それの刊行を期することになった。以上誌すように、この書は、荻原雲来博士によって開始せられた和訳称友倶舎論疏を承け継ぐものであるけれども、その仕事をよりよく完遂せしめる点になると、倶舎論の本文をも同時に掲示せねばならぬことになった。そして倶舎論の本文の訳という点になると、プーサン教授の労作に於て一応の成果の完結が示されているけれども、現在の立場から見るならば、漢訳両本との行き届いた比較、及びチベット訳諸註釈の参照という手続きが要請せられることになるので、本書に於てh、そういう点でプーサン教授が到達した点をもう一歩進めることになった。そういうことによって本書は、倶舎論世間品に大して、先にゴーカレー氏が並び挙げたプーサン教授の労作と荻原博士の業績とに対して、若干の補訂添加を期することになったのではないかを思う。荻原先生が時あって用いられた言葉であるが、それは、先輩の遺業を継承する役目におかれた後輩としての当然の責務であるからである。但、本書のもつそうした意味が、どの程度に於て果遂せられ得たかについては、偏えに学界諸賢の批判を仰ぐ他はない。(山口益・船橋一哉『倶舎論の原典解明 世間品』昭和30年、緒言、pp.1-13,〔 〕内は私の補足)
異例とも思えるほど長く引用した。この緒言には、それだけの価値があると判断したからである。山口博士の詳細な記述によって、『倶舎論』現代語訳等の様々な国際的プロジェクトの推移がつかめた。

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