「倶舎論」をめぐって

CXXII
大分以前に見た、木村泰賢博士の著作などでは、「理長為宗」は、『倶舎論』に対する賛辞であった。これらの扱い方に比べ、松浦氏は、ひどく「理長為宗」に冷淡である。また、第5説は、頌(=詩)と長行(散文注釈)とが、思想的に異なるとする説である。これまた手酷く批判している。「頌と長行が思想的に異なる論書など見たことがない」といっているのだ。しかし、これも加藤純章博士やツルティム・ケサン氏のチベットの解釈では、お
かしなことになる。しかし、松浦氏の解釈・批判は、一定の教学を背景としているようであって、妄りに邪説扱いすべきではないような気がする。しかし、松浦氏の伝統的倶舎学に対する学識は、侮れない。次のような解説を見ると、氏の研鑽の跡がはっきりする。
 今現流ノ部ノミヲ評スヘシ光記ハ主トシテ依ラザルヘカラス動モスレハ多釈ヲ作ルヲ厭フモノアレトモ論部ヲ解スルニ彼ノ如クナラサレハ所含ノ論意ヲ盡サス其釈義穏当ニシテ且ツ丁寧ナリト云ヘシ其ノ義ノ中の取捨スヘキハ無論ニシテ読者ヲサルヘカラス神泰ノ疏写本旦〔もと〕残欠ニシテ評スル能ハス光ニ引用セルヲモテ見レハ取ルヘキ者多カルヘシ宝疏ハ文解十ノ六七マテ光ヲ写ス其自説ニ於テ卓見アレトモ法門の誤り多シ師説ニハ宝ノ卓見ハ愚者満慮ノ一得弁セラレタリ円暉ノ頌疏ハ多ク光ニ依リ少ク宝ヲ取ル文筆ハ二記ノ右ニ出ツ慧暉ノ鈔遁麟ノ記ハ別ニ開カサルモ可ナリ鳳湛ノ頌疏冠導ハ文解ニ就テハ少々典拠ヲ出スモノアリ世間品等ニ図ヲ出スモノアレトモ近世ノ名所雑記第五ヲ開ケハ足ルヘシ湛慧ノ指要鈔ハ写本ナレトモ広ク伝ハル宝ヲ多ク取リテ光ヲ用ル少ク得失送半ハスト云ヘシ徳門ノ要解ハ簡ニシテ取ルモノ半ニ過ク林常ノ法義ハ広博識ニシテ一機軸アリ却テ深キニ失シ取ルモノモ半ハニ及ハス珍海ノ明眼鈔ハ随文釈ニ非レトモ取ル所アリ其他写伝シテ多ク人ノ見サルモノ或はハ全部貫通シテ釈セサルモノハ評セス総括シテ云ハゝ光宝二註ノ外ニ出ル説ナシ或は支那ニ於テハ特ニ争論ノ端ヲ見サルモノ日本ニ至テ一ノ問題トナリシ類ナキニ非レトモ光宝ノ釈ヨリイヘバ末論ノミ。(松浦僧梁『倶舎論指針』明治37年、pp.142-144,〔 〕内私の補足、1部現代語表記に改めた)
実際に読んでいる人の意見であることが、よく伝わると思う。特に、末尾で、「日本で問題視されたが、中国の普光・法宝の二注釈では、瑣末な議論に過ぎない」という趣旨の発言は、松浦氏の見識を示すものであろう。


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