仏教余話
さて、今西博士は、この後、ある経典を紹介して、仏教における「因中有果論的な考え方」に言及する。博士の指摘を待つまでもなく、因中有果論的な考え方は、仏教にも根強くある。以前にも、度々、言及したことのある『倶舎論』は、インド仏教思想を考察する上では欠くことの出来ない傑作である。著者は、世親(Vasubandhu,ヴァスバンドゥ)といい、第2のブッダと讃えられるほどの学僧である。唯識の説明の際、よく名を出した無着の弟といわれている。大体、4-5世紀の人である。彼の『倶舎論』は、中観であれ、唯識であれ、仏教論理学であれ、ほとんどすべての分野に渡って、解明の鍵を与える。ゆくゆくは、この『倶舎論』をベースにして、研究が出来れば、よいと考えているが、『倶舎論』の講読に至るまでに、もう少し、予備知識を蓄えてもらおう。その『倶舎論』は、説一切有部という有力部派の学説を中心に論じている。説一切有部の名の由来ともなったのは、「三世実有」という時間論である。過去・未来のものも、現在のものと同様にある、という一見、変わった時間論で、他の仏教諸派からは、攻撃の的となった。その中でも、物の時間的変化を、因中有果論的な考え方で示す論者も登場するのである。『倶舎論』には、随所に、サーンキャ学派あるいは、ヨーガ学派の思想が見え隠れしていて、その辺りのからくりを解明すれば、『倶舎論』の真相さらにいえば、仏教の真実の姿も見えてくる、と考えている。 『倶舎論』を中心としたサーンキャ思想の考察は、暫くして、綿密に行うことを約束して、今は、示唆的な言及を2つばかり、紹介しておこう。
何度か登場願った、インド思想全般に詳しい宮元啓一博士は、世親の唯識思想について、以下のよううに述べている。
ヴァスバンドゥ(世親)によって完成された唯識説では、識(心)の特殊な流出(転変)によって世界(心身と環境)が現出するという、流出論的な一元論を唱えるので、自己の存在を認めない無我説の立場に立つとはいえ、この点は、〔古代インドの文献ウパニッシャドに登場する賢者〕ヤージュニャヴァルキヤの発想と軌を一にしていると見ることができる。「識」を「自己」だといってしまいさえすれば、ヤージュニャヴァルキヤの説と何ら変わるところがない。唯識説による無我説は、じつは本質的には有我説なのである。(宮元啓一『インド哲学七つの難問』2002,p.96,〔 〕内は筆者の補足)
また、古坂紘一氏は、雨衆外道(Varsagnya)という奇妙な名を持つサーンキャ(Samkya)学派を、詳しく論じ、こういう疑問で稿を閉じる。
〔唯識で説く〕潜在意識(阿頼耶識)が経験を生み出すという阿頼耶識縁起の思想や、菩薩はその条件として種姓(素質)を具えなければならないという種姓論などのYBh〔=『瑜伽師地論』〕の重要な所説は、むしろ〔サーンキャ学派の〕因中有果論を借用した思想でなかったかとさえ思わせるからである。このことについては今後さらに比較検討する余地があるであろう。(古坂紘一「『瑜伽師地論』に見る因中有果論批判―その思想史的意義―」『大阪教育大学紀要 第一部門』49-2,2001,p.141,〔 〕内は筆者の補足、同論文はインターネット上で見ることが出来る)