日本人の宗教観ーある観点ー

その2
次に、本覚思想と芸術との深い関係を確認するために、茶道の大成者、千利休(1522-1591)
を取り上げてみましょう。三崎氏は述べています。
 利休はかの「見わたせば花も紅葉(もみじ)もなかりけり浦(うら)のとまやの秋の夕ぐれ」という〔藤原〕定家(ていか)の名歌について、浦の苫屋(とまや)の寂(わ)びすました「無一物(むいちぶつ)の境界(きょうがい)」こそ「茶の本心」だと…教えられ、そのような「茶の湯の本心」は「草の小座敷(こざしき)にある…」と述べた。この「本心」とは、一般には、”本意・真意”というほどに解されている。だが私は、侘(わ)び茶のような中世美意識における「本心」という言辞(げんじ)は、〔藤原定家の父、藤原〕俊(しゅん)成(ぜい)における”歌の根源としてのもとの心」に由来している、と考えたい。…人は、詠歌(えいか)のような技芸を至高にまで進めるためには、己(おの)が心を、日常の揺れ続ける域から脱却させて、真実そのものを生きぬくための不動のもとの心の位に据え直さねばならない。そのことを天台(てんだい)止観(しかん)から学んで”歌道は仏道に通じる”と述べたのが『古来風躰抄(こらいかふうたいしょう)』であった。その基本が定家に受け継がれ、…さらに能楽や侘び茶の存在意義と目標をも啓発するようになった。おのが芸の道を”はかなきすさび”と危ぶみながらも、却(かえ)って人として物としての在ることの究極意義を発悟(はつご)するような、こころを本の心に振り向ける生存態度こそ、本覚思想の実践であった。…利休は「茶の湯の本意」は「水を運び薪(まき)をとり湯をわかし茶をたてヽ仏にそなへ人にもほどこし吾(われ)ものむ、花をたて香(こう)をたく、みなみな仏(ぶっ)祖(そ)の行ひのあとを学ぶ也」と語った。…”侘び茶の生成”は、すべての在るものを、それを在らしめている根源的な”いのち”に即して受け取り直していくための玄妙(げんみょう)な所作(しょさ)を工夫する道(marga)を歩み始めたのであろう。(三崎本、pp.892-904、〔 〕内私、ルビは私、1部標記変更)
先に触れた藤原俊成のように、千利休もまた、本覚思想の下、自らの茶道を高めていきました。このように中世日本では、本覚思想があらゆる分野に浸透して、芸術家達の美意識を確立していったのです。ここで侘び寂びが出てきました。皆さんも利用するウイキペディアにその項目があるので、瞥見(べっけん)してみましょう。
 Wabi-sabi(侘び寂び)represents a comprehensive Japanese world view or aesthetic centered on the acceptance of transience and imperfection.The aesthetic is sometimes described as one of beauty that is “imperfect,impermanent,and incomplete”.It is a concept derived from the Buddhist teaching of the three marks of existence(三法印sanboin),specifically impermanence(無常mujo),the other two being suffering(苦ku)and emptiness or absence of self-nature(空ku).( cite from Wikipedia Wabi-sabi,2004/08/27)
 (私訳)侘び寂びは、包括的な日本人の世界観、または美意識を代表している。それは、儚(はかな)さや不完全さを承認することの中心となっているのだ。その美意識は、よく、「不完全、刹那的(せつなてき)、未完成」という美の1つとして、描かれる。三法印(さんぽういん)という仏教教理に由来する観念である。取り分け無常(むじょう)に由来する。他の2つは、苦そして、空(くう)もしくは無自性(むじしょう)である。
侘び寂びが、仏教の影響下にあることは指摘されていますが、ここに、本覚思想という言葉は見当たりません。現代日本でも取沙汰(とりざた)されることの少ない思想なのだから、致し方ないのかもしれないのです。ただ、本覚思想の持つ影響力を認識し、海外の人に侘び寂びを説明する際も、その思想を語れるようになってもらいたいと思います。一般に、日本人には宗教はないと言われますが、極度に深化した仏教思想、完全なる現実肯定思想、すなわち本覚思想が脈々と生きていると伝えられるように心掛けてもらえば、幸いです。

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