新チベット仏教史ー自己流ー

その5
 ハシャン・マハーヤーナ〔摩訶衍〕がここにおわしましてから、チベットの大部分の大臣はハシャンに学びました。少数が菩薩(ぼさつ)〔シャーンタラクシタ〕の弟子だったので、ハシャンの見解を学ぶことを思わず、結果、頓門派・漸門派2つに分かれました。その両者が一致せず争ったことに対する我が申し出を、ハシャンの弟子達は喜ばずニャンシャミは自らの肉を切り刻み死んだのです。ハシャンのメゴは、自らの頭に火を放って死にました。ニェクリンポチェとニャクチェマレーは、自らの睾丸を打ち付けて死んだのです。
王の周りには、摩訶衍を慕う者が多く、非常に、強硬的な集団であったと伝えられています。
 さて、これまでは、『学者の宴』という仏教史書からの引用を中心として、宗論の様子を見てきました。あまり、従来の研究所では、使われていない個所を紹介してきました。さらに、詳しく知りたい方は、御牧克己「頓悟と漸悟」『講座大乗仏教7中観思想』昭和57年や先ほど触れたヒューストンの著書等をご覧ください。御牧氏の研究は、カマラシーラの著書『修習(しゅうじゅう)次第(しだい)』や摩訶衍の著作に言及し、内外の研究をほぼ網羅してありますから、非常に有益です。
 『学者の宴』から、カマラシーラの著作が生み出されて様子を紹介しておきましょう。
 師カマラシーラに対し、王は一切法〔すなわち〕聞・思・修3つによって、無我を確定するその法をありのままを文章に記録するよう懇願したので、『修習次第初編』を著して、献じた。王はご覧になって、意味を熟慮なさり、今、その意味を一心に修習するとしたら、どのように修習するのかと伺ったので、『修習次第中編』を著して、献じた。その場合、果報はどのように現れましょうと伺ったので、『修習次第後編』という果報を示すものを著して、献じた。その果報を、殊の外お喜びになったので、その意味の解説として、菩薩〔シャーンタラクシタ〕のお考えを論難することがあるのを恐れたため、経〔証)・理〔証)を兼ね備えた(『中観光明論』を著し、王に捧げた。
ここに挙げられた著書は、すべて現存します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?