世親とサーンキヤ

その11
さて、「雨衆外道」の思想的微妙さについて、他の研究者の意見も聞いてみよう。田村庄司氏は、こう語っている。
 世親は數論を雨衆外道と呼んでいる。雨衆は數論の一派の上首Varsaganyaのことで、彼は世親傳の僧佉論に通暁した龍王比梨沙伽那で、頻闍訶婆沙は彼の秀れた弟子であった。所で、大比婆沙論では數論を五頂外道としているから、それの編纂當時數論は五頂Pancasikhaによって代表されていたのであろうか。それが世親に至つて雨衆Varsaganyaの名で代表せしめられた程であるから、彼は餘程秀れた學者であったのであろう。茲で結論的にいえば、倶舎論に關する限り世親に知られた數論は、比梨沙伽那及び頻闍訶婆沙のそれで、それはむしろ自性一元論による轉變説と解されやすいものであつた。從つて世親は未だ從來の數論の諸説を整理し、數論獨自の立場を確立したPurusaとPrakrtiの二元のもとに體係された自在黑のそれを知らなかつた。とすれば世親傳や陣那のことを勘案するとき、むしろ頻闍訶婆沙と自在黑とは別人で、そして自在黑は世親以後の人であろうと考えることが出來よう。(田村庄司「世親に知られた數論説―特に倶舎論に於てー」『印度学仏教学研究』13-2,昭和40年、pp.574-575)
「世親の時代には、イーシュヴァラクリシュナは知られず、雨衆外道説が主流であった」気配は濃厚なのである。また、その思想的立ち位置も微妙であることも伺える。更に、こういう指摘もある。
 Dignagaは『知識論集成』〔=『集量論』〕第1章に於いてサーンキヤ學派の知覺説を批判するに當つて、Varsaganyaの定義を採り上げて反駁した後、Madhavaの學説に言及している。(服部正明「ディグナーガ及びその周邊の年代」『塚本博士頌壽記念 佛敎史學論集』昭和36年、p.82,〔 〕内私の補足)
つまり、『集量論』Pramanasauccayaにおいて、イーシュヴァラクリシュナの『サーンキヤ頌』は、正面切っての批判相手ではないのである。ということは、ディグナーガ(Dignaga)は、『サーンキヤ頌』を知らなかったか、無視したのであろう。ディグナーガの時代まで、サーンキヤといえば、それは、「雨衆外道」だったのである。そして、『真理綱要』の時代になって、ようやくイーシュヴァラクリシュナがメジャーな存在として浮上してきたのか
もしれない。とにかく、仏教徒とサーンキヤの関わりは深いのだが、その実態解明は未知なのである。「雨衆外道」の思想的重要性を再確認出来るような見解にも、触れておこう。

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