仏教余話

その242
『倶舎論』には、もう1箇所、サーンキャ批判が見られるが、それは、また、後で、触れることにして、今は、この雨衆外道という奇妙な名前を追ってみよう。高木訷元博士は、『瑜伽師地論』Yogacarabhumi(ヨーガーチャーラブーミ)の説を紹介している。そこには、こうある。
 因中有果論〔原因に結果があるという主張〕とはいかなるものか?ある沙門、もしくは、婆羅門には、以下のような見解がある。こう論ずる。「常に、いつの時も、絶えず、永久時に、結果は原因に必ず存在する。」と。そのように、雨衆外道〔はいうのである〕。
 hetu-phalasad- vadah katamah/yathapihaikasya sramano brahmano va evam drstir bhavaty evam vadi nityam nitya-kalam dhruvam dhurvakalam vidyata eva hetau phalam iti tadyatha Varsaganyah//(V.Bhattacharya ed,The yogacarabhumi of Acarya Asanga,University of Calcutta 1957,p.118ff)
因中有果論者、謂如有一若沙門若婆羅門、起如是論、常常時、恒恒時、於諸因中具有果性、謂雨衆外道、作如是計。(『瑜伽師地論』大正新修大蔵経、No.1579,303c8-10)
これは、高木博士の「ヴァールシャガニヤの数論説」『マータラ註釈の原典解明 高木訷元著作集2』平成3年所収p.44から、原文を孫引きしたものに拙訳を付したものである。他に、有名なルエッグのD.S.Ruegg,Note on Vrsaganya and the Yogacarabhumi,Indo Iranian Journal,vol.VI,1962-63でも同じ箇所が言及されている。因中有果論は、サーンキャ学派の重要な説である。これを、金倉圓照博士は、『インド哲学史』の「サーンクヤ(数
論)の体系」において、次のように説明している。
 本性の存在はそれの結果である現象界から、逆に原因を推理する共見比量によってしらねばならぬ。そして物の発生には質量因を必要とし、一定の物からだけ一定の物が生ずる。そこで因は造る力をもち、果は常に因に規定せられる。ゆえに物は果としてあらわれる前に、すでに因中に存在しなければならぬ。かようなわけで、現実の世界がある以上、その根源たる本性(=根本原質)は実在し、しかもその中に現象界に至るまでの展開の諸原理が、予め含まれているとする。これを因中有果論satkarya-vadaという。(金倉圓照『インド哲学史』1979,p.110)
このような考え方が、サーンキャ学派に根強いのである。ただ、サーンキヤ学派の定番とも思われる因中有果論自体の出所は今一つ、サーンキャの古い文献では不明瞭なのである。
その辺りの消息を、服部正明博士は、こう述べている。
 一九九八年十一月六―八日の三日間のわたって、スイスのローザンヌ大学において、「サーンキヤ・ヨーガ会議」(Conference Samkya and Yoga)が開催された。…〔そこでは〕古典Samkyaの重要な学説である〔因中有果論〕satkaryavada(結果は原因の中に潜在的に存在しているという説)はSamkyaの古い資料には見出されない。もしそれがある時期にSamkyaに導入されたのだとすれば、なぜそれが導入されたのか、また、それはSamkya,体系内においてどのような役割を果たしたのか。これらの点を明らかにする資料が他学派の文献の中に見出される可能性はないか。〔などが論じられた〕。(服部正明「国際サーンキヤ・ヨーガ会議」『東方学』99、平成12年、pp.1-2、〔 〕内私の補足)
因中有果論の来歴さえ、不明瞭なのである。以って、学問的通念には疑いの目を向ける姿勢が必要であることを肝に銘じよう。
 

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