Tips of Buddhism

No,75
The〔famous religious〕debate was held,according to the sources,between 792 and 794 A.D.Although the monastery named Bsam yas had only founded circa 775 A.D.(?),it was the first Monastery be established in Tibet and was located north of the Gcah po river.Because of its primacy and this debate,Bsam yas has played an important role in Tibetan history.One of the nost important aspects of this debate…is antagonism between
China and Tibet…(G.W.Houston,Sourses for History of the bSam yas Debate,1980,pp.1-2,〔 〕my addition)(Hints Bsam yasサムイェ、Gcah poチャポ)

(訳)
有名な宗論は、資料によれば、792年から794年に行われた。サムイェと名づけられた寺院は、775年ごろ建てられたばかりだが、チベット最初の寺院だったし、チャンポ川の北に位置していた。その権威とこの宗論のせいで、サムイェはチベット史上、重要な役割を担(にな)った。この宗論の最重要な視点の1つは、中国とチベットの対立だった。
(解説)
サムイェの宗論と言う有名な宗教論争があった。著者のホーストン氏は、この著書では、チベットの歴史文献を扱って、思想的面には別著で触れるとしている。この宗論自体、それが歴史的事実なのかどうか、長く疑われていたが、ドミエブルという学者が、1952年、『ラサの宗論』と題する書物を公刊して以来、この論争は学界の注目を浴びるようになった。それ以前は、歴史的事実かどうかの真偽さえ疑われていたのである。ホーストン氏の指摘するように、中国とチベットは政治的に対立していた。チベットの隣国にはインドが控えていて、政治的にもインドと親交を結ぶべき状態だった。そのような、背景の中で、チベットでは正式に仏教導入を模索していた。その頃、チベットの占領下にあった敦煌(とんこう)で、磨訶衍(まかえん)という中国の禅僧が、信者を集めていた。時のチベット王は、磨訶衍を首都ラサに呼んだ。インド仏教支持者達からは磨訶衍の教えは、仏教ではないというような批判が出てきた。そこで、王は、インド仏教と中国仏教を目の前で論争させ、勝った方の仏教を国教として採用することとした。インド側の代表者は、カマラシーラ(Kamarasila)というインドきっての優秀な僧だった。中国側からは、磨訶衍が出た。磨訶衍の主張を簡単に述べると、「心を無念無想とすれば、直ぐに悟りを得られる」というものであった。これに対し、カマラシーラは「修行は段階を追って積み重ねていくもので、直ぐに悟りを得ることは出来ない」と反論した。結果、カマラシーラが勝ちを収め、以降、チベットでは公的にはインド仏教を採用した。磨訶衍は、論争に敗れた後、敦煌へ戻り、再び説法を始めたということである。この論争の勝敗は、確かに当時の政治状況も関与したであろう。しかし、1番重要なのは、インド仏教と中国仏教の思想的食い違いである。磨訶衍の言う「無念無想」は、日本仏教にも通じる主張である。もし、同じような宗論が日本で起きたなら、勝者は磨訶衍であったに違いない。この点をよく噛みしめて、日本仏教を専攻する場合も、その本質を考えるようにしてもらいたい。カマラシーラの主張は、自著『修習(しゅうしゅう)次第(しだい)』Bhavana-kramaに示されている。一方、磨訶衍の主張は、弟子の著した『頓悟大乗正理決(とんごだいじょうしょうりけつ)』に見て取れる。今では、両方共の情報が多数ある。一般的な概説書にも記載されているので、是非、一読をお薦めする。
 
 


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