「倶舎論」をめぐって

LXVI
三注釈の関係に一石を投じたものとして福田琢氏の研究があるので以下に紹介しておこう。
 安慧〔スティラマティ〕釈と称友〔ヤショーミトラ〕疏という「それぞれ一つの学流を代表する」二註釈書のより厳密な関係ずけは、今日では微妙な問題となっている。年代的にはおそらく安慧が称友に先行する。また称友の釈文は断片的には安慧釈としばしば一致を見せるから、称友が安慧をまったく知らなかったという想定はやや不自然に思える。しかし、この印象に反して、称友は自らの註釈において安慧の名に一度も言及しない。称友が、徳慧や世友といった、おそらく安慧の(あるいは安慧と同じ)系統に属する『倶舎論』注釈家たちを何度も名指しで批判している事実を思えば、これはいささか奇妙な事態である。もし称友が安慧より後代の人物で、かつ安慧の詳細な『実義疏』を知っていたなら、なぜかれは自らの注釈において安慧の名に一度も触れなかったのか。(福田琢「Bhgavadvisesa」『櫻部建博士喜寿記念論集 初期仏教からアビダルマへ』2002,p.38,〔 〕内私の補足)
福田氏は、このような問題意識を持ち、次に、考察手段をこう語る。
 この問題を解決する手がかりとして、本稿では、徳慧と世友とともに称友疏に名指しで引用される『倶舎論』注釈家「バガヴァッドヴィシェーシャ」(Bhagavadvisesa)〔「特別神聖なるもの」というような意味〕について検討する。この未知の人物の注釈は称友疏のうちに七回(うち二回は同じ議論に続けて引用されているので項目としては六項目)見いだされる。これを徳慧説の五回、世友説の十回という引用回数と比較すれば、称友がバガヴァッドヴィシェーシャなる注釈家に、徳慧および世友に対してと同程度の関心を払っていたことが理解される。また称友が基本的にはその異説を批判するために引用を行っている点も、徳慧や世友に対する態度と同じである。しかしながらバガヴァッドヴィシェーシャという名の『倶舎論』注釈家について情報を伝える資料は、この称友疏以外には知られていない。(福田琢「Bhgavadvisesa」『櫻部建博士喜寿記念論集 初期仏教からアビダルマへ』2002,p.38、〔 〕内私の補足)
このように、手堅い手法で考察を進めた福田氏の出した結論は、極めて魅力的なものである。以下のようにいう。
 結論から言えば、このバガヴァッドヴィシェーシャ説は安慧(および満増)〔プールナヴァルダナ〕の注釈とおおむねよく対応し、場合によっては直接的な引用と見なせるほど逐語的に一致する。ゆえにバガヴァッドヴィシェーシャとは個人名ではなく、称友が安慧の解釈を引用するにあたって用いた呼称である、と筆者は考える。すなわち、称友は、自らの注釈を造るうえで、直接の規範にはしなかったとはいえ、やはり安慧の『実義疏』を具体的に参照していたのであり、あえてその所説に異論を唱える場合には、名指しの批判を避け「バガヴァッドヴィシェーシャ」なる一種の敬称を用いた、というのが本稿における筆者の仮説である。(福田琢「Bhgavadvisesa」『櫻部建博士喜寿記念論集 初期仏教からアビダルマへ』2002,p.38、〔 〕内私の補足)
福田氏は、プールナヴァルダナがスティラマティの追随者とみなす傾向が強いようである。その点には、私は同意出来ないし、江島博士も異論を呈していた。しかし、仮説そのものには、説得力を感じる。とにかく、3つの注釈書の相互関係への決定的見解は、未だ、解明の途上にあり、今後の検討を待つしかないのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?