仏教余話

その95
さて、大分、横道に逸れたが、ここで、立川博士の説明に戻ろう。博士は、大乗仏教とヨーガとの関わりを論じていた。以下は、もう1つの代表的大乗仏教、唯識派の素描である。
 おそらくこの学派〔=唯識派〕は仏教諸派のなかでもっとも複雑難解な世界観と実践理論を有している。ここでは唯識派のヨーガの一側面を見るにとどめたい。「ヨーガ行派」ともよばれるこの学派のヨーガ行の要点は、つぎのような「三つのもののありかた(三性)」によって説明される。その三つとは、「他に依るもの(依他性)」、「構想されたもの(分別性)」、および「究極的真理(真実性)」である。…「究極的真理」とは、「他に依るもの」において「構想されたもの」がなくなることである。つまり、対象をとらえないのである。対象はそもそも存在せず、対象が存在すると思うのは、認識が自己を見ているにすぎないのだと、この学派は主張する。すると、対象、つまり「他」をうしなった「他に依るもの」の存在にも変化がおき、やがてそれは智の光へと昇華していく。ここが唯識派のヨーガの特質である。つまり、針の先のような微小な存在であろうとも、ともかく唯識派はエネルギー母体の断絶をのぞまない。何ものかが残るのである。『中論』との相違も、おのずからあきらかである。『中論』は智慧も何も残さない。…「俗なるもの」の否定の手をのがれる「残れるもの」が存在するということは、中観派の立場をあやうくした。しかし、何ものかが止滅されずに残るという立場は、その後の大乗仏教では、勢力を増していったのである。仏教のヨーガもまた、全世界を止滅させるというよりも、かの「残れる何ものか」を顕現させるという方向に進んでいった。(立川武蔵『ヨーガの哲学』1988,pp.181-183、〔 〕内は私の補足)
博士の説明のように、唯識派では、最後に何かが残るのである。それは、純粋な意識だけの世界、対象を捉えることさえもないような心だけの世界である。まさに、唯識である。中観派は、最後に残る心さえないとする。完全な空・無である。



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