仏教余話

その142
ともかく、もう少し、ドイルを追ってみよう。彼は、スピリチャリズムの布教に血道をあげるのだが、その途上、大きなポカもしている。次にような次第である。
 話は一九一七年七月にさかのぼる。イングランド北部のヨークシャー地方『嵐が丘』の舞台となったハワースからさほど遠くない寒村コッティングリーに住むエルシー・ライトとそのいとこのフランシス・グリフィスは、それぞれ十五歳と十九歳の少女であったが、ある日曜日の午後、父親のカメラを借り、裏庭づたいに近くの森に入っていったまま、午後のお茶の時間にも遅れて帰ってきた。二人はその言い訳に妖精たちと遊んでいて、つい時間をわすれてしまったこと、そして妖精と写真を撮ったことを告げた。現像してみると、確かにフランシスが妖精と一緒に写っていて、シャッターを押したのは年上のエルシーだということだった。妖精の存在は、信心深いこの土地の人たちには格別目新しいことではなかったし、実際に妖精を見たという人もたくさんいたが、しかし妖精が写真に写しとられたのは初めてだった。聞けば、この二人の少女は、ずっと以前から家の裏手の奥にある小さなせせらぎのそばで、こうした妖精たちと遊んでいたという。エルシーの両親はこの話や写真を本気にせず、馬鹿馬鹿しいことだと片づけていたが、この写真が当代随一の神知学者といわれていたエドワード・ガードナーの目に触れたことから、話は大きくなった。ガードナーはこの写真の信憑性を疑わず、知人のドイルに見せた。アイルランド人であるドイルは、子供の頃から妖精の話を数多く聞いていたし、しかも自分自身も今や心霊主義者として布教活動に入って、未知なる存在に対して深い関心を持っていたので、この写真を見せられ、早速に専門の写真家に見せた。彼等は疑わしいとは思ったものの、それが贋物であると確認することもできなかった。そこで、ドイルはそそっかしくも、「ストランド・マガジン」一九二○年一二月号に、その後に撮ったというもう一枚の写真と合わせ、二枚の写真に、それにまつわる少女の話をそえて掲載し、この写真は本物であり、妖精はかくのごとく存在するのだと言いきってしまった。…この事件を追い続けていた「英国写真」誌のジョフレイ・クローリーは、あらゆる角度からこの写真の信憑性を追及した結果、ついに、いかにしてこの写真がたうくられたのかの核心にせまることができた。そして彼の執拗な追及にあって、ついに一九八三年になってエルシーとフランシスはこの写真が贋物であることを認めた。実に、最初の写真がつくられた一九一七年から六六年後のことである。(河村幹夫『コナン・ドイル ホームズ・SF・心霊主義』1991,pp.167-171)
結果的には、ドイルの完全な勇み足だったのである。このような軽率なことをしでかした背景には、しかし、確かに、当時のスピリチュアリズムへの関心の深さがあったのである。事のついでに、もう少し、今のテーマを巡る状況を述べておこう。スピリチャリズムそのものに対する興味から、ドイルを研究した和田惟一郎氏は、以下のようにいう。
 ドイルの主張と心霊主義を立体的に理解するためには、何か別の情報が要ることに気がつき、筆者はそれを発見した。それは英国心霊現象研究協会(SPR)〔Society for Psychical Research〕という現在も存続する機関であり、そこの蓄積された心霊現象に関する膨大な記録や報告、論文、そして運営に関わった人々の個人的記録、つまりSPRの全情報だった。SPRの情報がドイルの主張を検討するうえで不可欠なのは、SPRが他の数々の心霊主義の団体と違って、心霊主義が真に実在するかどうかを中心テーマとする団体であり、科学的すぎるほど科学的な調査研究に徹していて、疑いのない帰朝な情報の宝庫であるだけでなく、ドイル自身がSPRのかなり古くからの会員であり、その情報を高く評価して活用しているからである。それだけでなく、SPRの創立時からのメンバーや、後に参加してきた者たちの調査と研究は、後にできたアメリカ心霊現象研究協会(ASPR)とともに、心霊現象の真偽をめぐる論争や事件を次々と巻き起こし、欧米における心霊学の歴史を形成している。(和田惟一郎『死者は生きている コナン・ドイルが見つけた魂の世界』2011,pp.21-22,〔 〕内私の補足)
当時の状況を知る、格好の機関を紹介したことで、ドイルを巡るスピリチャリズムの話は、終わりにしよう。興味のある方は、後は、御自分で調べてみることをお勧めする。


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