仏教余話

その150
ところで、唯識といえば、よくユングの無意識との比較が取り沙汰される。一応、この話題にも触れておこう。唯識といえば、その基礎をなす阿頼耶識(alaya-vijnana)に注目が集まる。これは、潜在意識なので、よく西洋の無意識と比べられるのである。唯識の専門家が、阿頼耶識と無意識について、最近提示した論文を紹介しておこう。佐久間秀範氏は、こういう疑問から始めている。
 唯識思想というとアーラヤ識〔=阿頼耶識〕をまず思いうかべるのではないだろうか。そしてそのアーラヤ識とはどのようなものかというと、無意識、あるいは無意識の領域に属するものと考えることが、ある程度一般化しているのではないだろうか。この「無意識」という言葉を使うことで多くは西洋の心理学、その中でもフロイトやユングの心理学と重ね合わせて唯識思想を何気なく理解しようとしていないだろうか。西洋の学問体系の中で「無意識」という概念が受け入れられるまでには、かなりの時間を要した訳であるし、「物理的な正確さ」を暗黙のうちに求める西洋の学問の枠の中では、フロイトやユングの理論体系が必ずしも学問として高く評価されているとは言い切れない事情を、日本人はどのくらい認識しているのか疑問な点も多い。(佐久間秀範「個人的無意識とbhagavanvinnana-深層心理とアーラヤ識の狭間でー」『佛経文化学会十周年 北條賢三博士古希記念論文集 インド学諸思想とその周辺』2004年、p.75、〔 〕内私の補足)
佐久間氏は、このように通念化した阿頼耶識と無意識の関係に懐疑の目を向る。フロイトやユングが唯識を理解した上で、無意識を主張したのではないことは、同氏の注から推測出来る。こう述べている。
 アーラヤ識に関しては、〔19―20世紀ヨーロッパを代表する、ベルギーの学者〕Lamotto〔ラモット1903-1983〕と〔もう1人の代表的学者、フランスの〕de La Valle Poussin〔ド・ラ・ヴァレ・プサン,1866-1962〕教授とが1934-35年にMelange Chinois et Boddhiques〔支那学・仏教学双書〕にのせている論文がもっとも古いようである。これによって東洋学者、仏教学者の間ではこのころ唯識文献が盛んに研究されていたことは事実と言うことができよう。しかし、フロイトおよびユングの著作のなかに明確に唯識思想の影響を云々することのできるものを筆者は今のところ見いだせない。識者よりのご教示を心よりお願いしたい。(佐久間秀範「個人的無意識とbhagavanvinnana-深層心理とアーラヤ識の狭間でー」『佛経文化学会十周年 北條賢三博士古希記念論文集 インド学諸思想とその周辺』2004年、p.88の注(23),〔 〕内私の補足)
噂だけで、確たる証拠はないということである。どこにでもある話だが、一応頭に入れておこう。


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