仏教余話

その77
例えば、先にチラリと言及したアポーハという言語理論も、神秘主義者の桂博士にかかると、以下のようになる。
 〔アポーハ論の〕その一つの到達点を示すために、ジュニャーナシュリーミトラの『アポーハ論』の冒頭偈を引用して本稿を終える事にする。言葉に対する彼等の真摯にして、徹底的な考究が「一切は不可言である」という結論に導くという事は、仏教における「沈黙」の意味の重要性をあらためて我々に自覚させるであろう。
  《一切法は不可言であると確証するために、言葉と証相は〔他者の〕排除を明らかにするという定立が立証される。》(桂紹隆「概念ーアポーハ論を中心に」『岩波講座・東洋思想10 インド仏教3』)1989,pp.155-156、〔 〕内私の補足)
このように、神秘主義的な面を評価する桂博士に対して、宮元啓一博士は、以下のように皮肉を述べるのである。
 また、〔ディグナーガ〕の新仏教論理学派は、普遍概念は他者の排除により成り立つ、否定的で実在性のないものだと主張する。たとえば、「牛」という普遍概念が成り立つためには、牛以外のすべてのものが排除されていなければならないという。もっとも、この「他者の排除」説〔=「アポーハ」論〕は、詭弁をはらんでいるとわたくしには見える。すなわち、「『牛』という概念が成り立つ」というのは、「牛」という普遍概念ができあがってくることをいうのであって、すでに成立している「牛」という普遍概念が「非牛」の排除を含意するというのと次元がちがうのである。すでに成立している概念を取りあげれば、その概念の肯定と否定は同じ力をもつ。だから、否定の否定は肯定であるという、ごくあたりまえのことを、そうした概念の操作にもちこむことが可能となる。しかし、「牛」という概念が成り立っていくときは、肯定と否定とは同じ力をもたない。たとえば、子供に「牛」という普遍概念をもたせようとするときを考えよう。われわれは、牛の個物に出会うたびに、その子供に「これは牛である」と教える。これが何度か繰り返されると、子供は、牛の個物に出会ったとき、「これは牛である」とみずから判断できるようになる。ここに、否定の否定は肯定であるという論理をもちこむことはできない。たとえば、子供に、馬を指して「これは牛ではない」と教え、机を指して「これは牛ではない」といくら教え、眼鏡をさして「これは牛ではない」と教え、というように、牛でないものを無数個さして「これは牛ではない」、つまり「非牛は牛ではない」といくら教えても、子供は「牛」という普遍概念をけっして習得しない。概念の形成過程の話と、概念の論理的価値の話をわざと混ぜこぜにして、「他者の排除」説〔=「アポーハ」論〕は成り立っているのである。「非牛は牛ではない」の正しさは、トートロジーとしての正しさなのであり、これは具体的な概念形成とまったく関わりをもたない。よって、「他者の排除」説によって、普遍の非実在を立証しようとするのは、詭弁以外の何ものでもない。仏教学者の九九・九九パーセントは仏教信者なので、この「他者の排除」説を称賛し、その詭弁性に触れることがまったくない。困った話である。(宮元啓一『インド哲学七つの難問』2002,pp.56-57、〔 〕内私の補足)
どちらを受け入れるかは、勿論、皆さんの自由である。実は、ディグナーガやダルマキールティなどの仏教論理学を正しく評価するためには、その先輩格にあたる偉大なる世親との思想的関わりを考察しなければならないのだが、それについては、後に詳しく触れる。


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