新インド仏教史ー自己流ー

その3
 師〔世尊〕入滅から、116年、華子(かし)城(じょう)(Pataliputra,パータリプトラ)というところで、王ダルマアショーカ(dha rma a sho ka)と言う者が、国政を行う時、ある論議の法が起こったことをきっかけとし、僧伽(そうぎゃ)の分断が大きくなり、それから、先ず、2部に分かれて住み、大衆部(だいしゅぶ)(Mahasamgika、マハーサンギカ)と上座部(じょうざぶ)Sthavira、スタヴィラ)〔となった〕。そのうち、大衆部は、さらに、次第に、別れることになった際、8種類として住した。以下のように、大衆部、一説部(いっせつぶ)、説(せつ)出世部(しゅっせぶ)、多聞部(たもんぶ)、説(せつ)仮部(けぶ)、制(せい)多部(たぶ)、東山部(とうざんぶ)、西山部(せいざんぶ)等である。上座部も、次第に、別れることとなり、10種類として、住した。以下のように、即ち、上座部、説(せつ)一切(いっさい)有部(うぶ)、犢子部(とくしぶ)、法(ほう)上部(じょうぶ)、賢(けん)道部(どうぶ)、一切所(いっさいしょ)貴部(きぶ)、多説部(たせつぶ)、法蔵部(ほうぞうぶ)、善(ぜん)雨部(うぶ)、上人部(しょうにんぶ)と言われるもの等である。
引用文献の詳細はややこしいので省きます。一見して、馴染みのない部派名が並んでいるのがわかります。平川氏は、こう解説しています。
 上座・大衆の二部分裂を「根本(こんぽん)分裂(ぶんれつ)」というのに対し、上座・大衆のそれぞれが、さらに分裂を繰り返したのを「枝(し)末(まつ)分裂(ぶんれつ)」という。・・・部派教団の枝末分裂は、紀元前二世紀のころが中心であったと思われるが、分裂の理由などは明らかでない。さらに・・・それぞれどの地方に栄えたかということも、明らかでない。((平川彰『インド仏教史』上、1974年、pp.150-164、ルビ私)
つまり、部派の実態はほぼ謎なのです。ただ、後代も勢力を維持していた部派のことはわります。上の引用文で太字にしている部派は有名です。少し、説明してみましょう。説一切有部は特に有力な部派で、インド仏教消滅まで存在を続けます。奇妙な名前です。これはこの部派の代表的教説に由来します。彼らは、「過去・現在・未来すべてのもの(=一切)が、存在する(有)と主張する(=説)」のです。三世(さんぜ)実(じつ)有(う)説と言います。1種の時間論で、とても不思議なものに見えます。過去と現在と未来を同列な存在としているように思われるからです。目の前に存在しているのは現在のものだけです。それが常識的時間論でしょう。そういう立場から、説一切有部は批判にさらされます。しかし、よく考えてみて下さい。過去の鮮烈(せんれつ)な印象や未来への強烈な憧(あこが)れは、現在のことのようにありありと見える時があります。誰しもがそのような体験をしているはずです。となると、説一切有部の考えも一理(いちり)あるように思えてきます。どうやら、説一切有部がこの説にこだわったのは、因果を守るためだったようです。つまり、「過去に殺人等の重い罪を犯した人間は、死んで生まれ変
わってもその罪の報いを受けなければならない」と考えた結果、過去の罪や未来の報いはしっかりと存在すべきであると結論付けたわけです。非常に倫理的時間論だったように思います。説一切有部は、この時間論を柱として、他にも様々な教理を作り上げていきます。仏教教理の源はこの部派にありました。それに反旗(はんき)を翻(ひるがえ)したのが、大乗仏教です。大乗仏教、すなわち、中観や唯識という教え、そして日本仏教の宗派は、反説一切有部から生まれたと考えても間違いではないでしょう。今や、日本は大乗仏教国です。そんな中にあっては、説一切有部などは、はじめから、下等な教えと決めつけられています。この点は、虚心(きょしん)に見つめ直す必要がありそうですが、思想的決着は未だ付けられていません。

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