仏教余話

その192
『大乗荘厳経論』の問題の偈に対する注釈も博士は紹介しているので、それも引用しておこう。
 そしてそこでは無漏界における諸仏の最高我(paramatman)が説かれる。何故か。〔諸仏は〕最上の無我を我(本性)とするものだから(agra-nairatmyatmakatvat)。最上なる無我(nairatmya)は清浄なる真如tathataであり、その〔真如〕は自性の意味として諸仏の我であり、その清浄なる〔真如〕において、諸仏は清浄にして最上なる無我なる我(nairatmya atman)を得る。清浄なる我を得たのであるから、諸仏は我の大我性(atmaーmahatmya)に達した、という趣意によって諸仏の無漏界における最高我が
確立せられるのである。(村上真完『サーンクヤ哲学研究―インド哲学における自我観―』、1978,p.768の注(50))
猶、一層、如来蔵的色彩が濃厚に感じられる。村上博士は、小さな注を加えて、この辺りの消息を終える。以下のようにいう。
 MUと後の仏教との関係については他日に期したい。(村上真完『サーンクヤ哲学研究―インド哲学における自我観―』、1978,p.768の注(59))
如来蔵思想の位置付けに関しては、未消化なままだが、我々も、それを後日に回して、ひとまずは、サーンキャと仏教の因縁浅からぬ関係を瞥見したとしよう。


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