「倶舎論」をめぐって

XXIII
その昔、大いに議論された「体滅・用滅」論争のあらましがわかり、『倶舎論名所雑記』が少なからず、その議論に影響を与えたことも推測出来よう。ところで、この体・用とは、そもそも、何であろうか。平井俊榮博士は、「「体用」とは本体と作用のことで、一般的には、中国宋代の儒者たちによってさかんに用いられた哲学用語である」(平井俊榮「中国仏教と体用思想」、理想2 仏教の思想、1979,No.549,p.60)と、まず、その規定を述べている。さらに平井博士は、「体用の概念が純粋に中国起源のものではなくて、唐以前においては、その体系的な用例は専ら仏教文献にかぎって見られるという事実と、体用の概念そのものは、きわめて中国的な思弁になじみやすいものであって、中国思想は元来体用思想であったという事実から、体用論理の形式的整備そのものは本来仏教によって形成されたものであるが、仏教の側からすれば、中国思想に「本来的、潜在的」に存した体用の論理をとりこむことによって、インド伝来の外来思想である仏教が、インド仏教に見られない独自の中国的な仏教思想の展開を可能にしたということである。」(平井論文、p.61)と俯瞰している。末尾で平井博士は、さらにこう述べている。「中国の伝統思想に本来的、潜在的に存した体用範疇に基ずく思考の形式というものは、どちらかといえば、体(本体)と用(作用)を区別する方向を目差すものであった。いわゆる本体論や生成論が中国固有の思想に特徴的に見られるのはそのためである。しかし、それは仏教の思想とは似て非なるものである。すでに述べたように、差別(相対)の世界と無差別(絶対)の世界の相即相関を説くのが仏教的思想の基本的な構造である。…このような体用論理のもつ主体的行為的な性格を、文字通り実践の場に移しかえたのが中国の禅者たちであった。」(平井論文、pp.72-73)平井博士の所論を単純に活かせば、「用滅家」は、中国的要素の強い解釈を示し、「体滅家」は、仏教的ニュアンスを加味した解釈を提示していることになるのかもしれない。いずれにしろ、体・用思想には、体の絶対視があるような気がする。それは、ローゼンベルグらの提唱する「超越的ダルマ」と極近い概念であろう。ローゼンベルグの解釈には、やはり、中国由来の伝統的理論が見えるのである。このことには、また、後に触れる。
古き伝統的倶舎学の代表的学者である、舟橋水哉氏は、この問題を、こう論じている。
 体滅用滅は一個の論題となって居るが、私はかういふ意味に於て用滅論者に賛同する。(舟橋水哉『倶舎の教義及び其歴史』昭和15年、pp.115-116,1部現代語表記に改めた)
さて、「体・用論争」に関しての比較的新しい研究を1,2紹介しておこう。櫻部博士は、伝統的な解釈にも、近代的研究にも通じた『倶舎論』学者である。博士は、こういう。
 体滅用滅の論争に於いては、前者は「一切行無常」の立場に拠るもの、後者は有部系の徴表たる「法体恒有」の立場に拠るものと考えることが出来る。しかしながら「一切行無常」という事と「法体恒有」と云う事は果たしてしかく矛盾するものであろうか。或いは又、一見まことに氷炭相容れざるが如くである有部の「三世実有」説と経部の「現在実有過未無体」説とは果して遂に相許し得ないのであろうか。我々は既に、体滅用滅に関しては西義男教授によって「有為法に体と用とをわけて考える限り用滅である」という断が下されてあり、又舟橋一哉教授の「三世実有説の一考察」が三世実有説そのものを着実に吟味して同一の結論に到達しているのを見る。今はそれらの驥尾に付して、倶舎論に於ける有部と論主世親との論争及び順正理論に於ける衆賢の世親に対する反駁を検討し、その上に看取される有部の三世実有説の立場が、そのもつ有に対する極めて特異な考え方の上に立ちつつ、実は仏教の根本的な立場である諸行無常を主張せんとしたものである点について考察しようと思うのである。(櫻部建「説一切有の立場」『大谷学報』31-1,1952,p.35、旧漢字を新漢字に改めた)
では、この論争は、全くの過去の遺物であって、最早、論じられることもないのかというと、そうでもないのである。

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