仏教余話
その159
この両学派間の論争は、インド仏教史におけるハイライトの1つで、長尾博士の1世代前の大学者、山口益(1895-1976)によっても『仏教における無と有との対論』(1941)という古典的名著で論じられているが、未だ、明確な解答は得られない。チャレンジするに値するテーマである。
唯識の後期インドでの展開だけ紹介しておこう。概説書等で目にすることもあると思うが、これも、また、解答の得られていない問題である。事は、人の認識をどう見なすのか、という根本的問題に関わる。難しい話題である。三枝博士の文を分けて紹介してみよう。
いま、一本の鉛筆を知覚する場合を例にとって考えてみよう。鉛筆を知覚する場合、鉛筆という像そなわち相がこころのなかに現れてくる。このような知覚作用によってこころの中に生じてくる影像をインド哲学では一般にアーカーラ(akara)といい、ふつう「相」「行相」と漢訳される。いまここでは「形相」と訳しておく。ところでこの鉛筆という形相が、こころの外に存在する鉛筆そのものに属するのか、それとも、こころの側に属するのか、という点でインドの諸学派は二つのグループに意見が対立する。前者は、鉛筆を知覚するとは、外界に存在する鉛筆の形相をそのまま認識すると考えるのに対して、後者はこころのなかに生じた形相によって、外界の鉛筆の存在を推量すると考える。前者は「無相識論」(Nirakara-jnanavada)、後者は「有相識論」(Sakara-jnanavada)とよばれ、瑜伽行唯識派以外の学派についていえば、ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派、バーッタ・ミーマーンサー派、毘婆沙師が無相識論に、サーンキヤ派、ヴェーダーンタ派、経量部などが有相識論に属する。さて、瑜伽行唯識派はこころ、すなわち識のもの存在をみとめ、外界に事物の存在をみとめない。したがってこころのなかの形相は、こころ自身が作り出したもの、つまり、「こころが自己のこころのみを見る」という基本的立場に立つから、当然、この派は有相識論に属する。ところで、こころのなかの形相の存在性をめぐって瑜伽行唯識派のなかで二学派の対立が生じた。
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