「倶舎論」をめぐって

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実例を挙げて、それを示してみよう。ツオンカパ(Tsong kha pa,1357-1419)というチベットの著名な学僧にも、『中論』の注釈書がある。『正理大海』rigs pa’i rgya mthoという。その24章「聖諦の考察」arya-satya-pariksaでは、「若しも中観派のように無自性だとするなら、仏教でいう四聖諦も成立せず、その修行に励むものもいなくなるであろう」という反論への応答の中で、次のようにいう。
 第2〔実践(zhugs,pratipanna)と結果の樹立は不適切であるという反論〕は、〔直前の第1で述べたように〕それら苦諦を知ること等がないので、4つの果報もないのである〔ということなのである〕。そのうち、初期修行の果報(rgyun zhugs,srota-apatti-phla,預流果とは、〔以下のような2種である〕。〔1つ目は〕、見解による〔煩悩の〕断絶(mthong spang,drsti-heya,見所断)が断じた16刹那(skad cig ma bcu drug pa)道を類推して知る(rjes su shes pa,anvaya-jnana,類智)解脱道である。〔2つ目は〕、欲〔界〕に属する反復修行による〔煩悩の〕断絶(sgom spang,bavana-heya,修所断)〔である〕。そのうち小・中・大3つの煩悩を3つずつに分けた9つの存在の6つ断絶されず、見解による〔煩悩の〕断絶が断じたのは、〔その中の〕2つである。『倶舎論』(mdzod)〔「賢聖品」(margapudgala-nirdesa)第51偈〕において、「果報とは、〔世俗的な〕変化の世界(’dus byas,samskrta、有為)と〔究極的な〕無変化の世界(’dus ma byas,asamskrita,無為)から成る」と説かれたようにである。
 sdug bden shes pa la sogs pa de dag yod pa ma yin pas ‘bras bu bzhi yang yod pa ma yin no//de la rgyud zhugs kyi ‘bras bu ni mthong spang pa’i skad cig ma bcu drug pa lam la rjes su shes pa rnam grol lam dang ‘dod par gtogs pa’i sgom spang gi nyon mongs chung ‘bring che gsun gsum du phye pa’i drug pa ma spangs shing mthong spang spangs pa’i spangs pa gnyis te/mdzod las/’bras bu ‘dus byas ‘dus ma byas/zhes bshad pa ltar ro// (ツオンカパ『中論頌 智慧という注釈 正理大海』dBu ma rtsa ba’i tshig le ‘ur byed pa shes rab bya ba’i rnam bshad Rigs pa’i rgya mtso、The Collected Works(gsun ‘bum)of Rje Tson-kha-pa Blo-bzan-grags-pa,New Delhi,1975,vol.23、folio.463/2-3、チベット語原典ローマ字転写)
修行のあれこれが説かれているが、その際の典拠は『倶舎論』なのである。つまり『倶舎論』の理解なくして『中論』の理解もないということが、はっきりと伝わるのである。『倶舎論』の持つ意味合いを、別な角度から噛締めて欲しい。


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