「倶舎論」をめぐって

LVI
冒頭部分には、ディグナーガの『集量論』帰敬偈を引用する長い文法上の解説がある。以のようなものである。
 〔『倶舎論』帰敬偈では〕「彼のお方に」という。この第4〔為格〕には、如何なる規定(laksana)があるのか?これについて、多くの注釈家達は、混乱している。徳慧先生、そしてその弟子の世友先生は〔以下のように〕、述べている。「第4〔為格〕は、帰命(namas)という言葉との結びつきにおいて」〔考えられるべきである。なぜなら、大文法家パーニニの書で、為格は〕「帰命・安寧(svasti)・吉(svaha)・幸(svadha)・充足(alam)・感嘆(vasat)に結びつくので」(『パーニニ・スートラ』2・3・16)といわれている、と。さて、これは,〔私から見れば、文法的・詩論的な説明が不足しているので〕、納得がいかないのである(ayukta)。単独の帰命という言葉に結びつく場合、それは第4〔為格〕である。そして、〔『倶舎論』の帰命〕これは、〔namas+√krという合成語なので〕、単独でない帰命という言葉であり、〔その場合〕、〔『倶舎論』の「彼のお方に」という為格は〕、行動の目的となる方(kriyaspadibutatva)だから〔為格を採用したの〕である。同じく、他ならぬこの〔世親〕先生は、〔別著〕、『釈軌論』vyakhyayuktiにおいて〔単独の帰命を使わない時にでも〕、「額にて、牟尼を、帰命いたします」と述べて、行為(karman)を規定する(laksana)第2〔業格〕を、〔「牟尼を」というふうに〕使用したのである(prayukta)。故に「第4〔為格〕は、帰命(namas)という言葉との結びつきにおいて」〔世親先生が『倶舎論』で、為格を、使用したわけ〕ではないのである。〔つまり、徳慧先生や世友先生のような単純な理由ではないのである〕。第2〔業格〕の位置に、第4〔為格〕が適用されたのである、と他の者はいう。即ち、このことは、彼らにとっては、好み〔の問題〕にすぎない(icchamatra)、実際(hi)、こ〔の適用〕には、規則(laksana)はないと考えているのである。この場合、何故、この第4〔為格〕なのだろうか?この第4〔為格〕は、贈与(sampradana)として規定されている(laksana)と我々は見なすのである。贈与の観念(samjna)とは、どのようなものか?「行為によって、あるものを喜ばす、それが贈与である」(『パーニニ・スートラ』1・4・32)と述べ、細註(curni)〔『マハーバーシャ』〕の作者は、行為という言葉を2様に説いた。文法上(paribhasika)の行為と、世間的(laukika)〔行為〕である。そのうち、「行為者が、最も望むこと(ipsitatama)が、行為である」(『パーニニ・スートラ』1・4・47)場合には、文法上の行為が顧慮されている。その時には、行為者は、最も望むことによって、あるものを喜ばす、それが贈与の観念となる。「バラモンのために、〔大事な〕牛を捧げる」という。こ〔の規則〕が成立しているのである。一方、「行為とは行動(kriya)である」という場合は、世間的行為が顧慮されている。その時、〔ある〕行動によって、あるものを喜ばす、それが贈与の観念となる。さて、これは〔世間的に〕、成立する。「戦士のために武装する」、「夫のために横たわる」といわれるからである。行為者は、武装という行動によって、戦士を喜ばす。横たわるという行動によって、夫を〔喜ばす〕といわれる。武装等が、贈与の観念であることが成立することとなる。同様に、ここでも、先生〔世親〕は、帰命という行動で、師を喜ばせている。だから、師に対して、贈与の観念があるのである。贈与の観念があれば、「贈与には、第4〔為格〕」といわれて、第4〔為格〕となるのである。〔だから、贈与の観念を説かなかった徳慧・世友両先生の注釈は、考慮が足りないと思うのである〕。〔私と〕同じように、考えて〔ある書では〕「先ず、説者中の最上なる師に帰命して」〔と為格を使って、述べたり〕、〔ディグナーガ(Dignaga)著『集量論』Pramanasamuccayaの帰敬偈では〕「基準となった方、世間を利することを願う方、師、善逝、救護者に帰命して」〔と、やはり、贈与の観念があるので、為格を使用して、述べたりしている〕と思うのである。このようなものなどが、他の詩論(kavyasastra)中に説く、語形(sabdarupa)を、順守しているもの(sunita)なのである。
もし、この時、贈与という観念のみが是認されるならば、〔世親先生が『釈軌論』において〕、「額によって、牟尼を、帰命いたします」と述べているが、ここに、第2〔業格〕は、不適切ではないか?〔そう判断するならば〕、これは過失ではない。意図(vivaksa)に応じて、諸の格(karaka)があるからである。行為を意図すれば、第2〔業格〕であり、贈与を意図すれば、第4〔為格〕である、と考えられるので、両方とも成立するのである。〔先に、他の者達が言った「好みの問題に過ぎない」ということと、明確な意図とは異なるのである〕。(荻原雲來 譯註『和譯 稱友倶舎論疏』(一)昭和8年、pp.9-11を参照した)
   tasmai iti kim laksaneyam caturthi?atra bahavo vyakhyanakara muhyanti/
acaryagunamatih,tacchasyas cacaryavasumitra ahatuh-“namahsabdayoge caturthi-‘namahsvastisvahasvadhalamvasadyogac ca’”iti,tad etad ayuktam;
svatantrasya namahsabdasya yoge caturti bhavati,asvatantras cayam namahsabdah;kriyaspadibhutatvat/ata eva canenaivacaryena
vyakhyayuktau”manaskrtya munim murdhana”iti karmalaksana dvitiya prayukta/tasman na namahsabdayoge caturthi/
dvitiyayah sthane caturthi prayuktety apare;tad idam esam icchamatram,na hi laksanam asyastiti/
kena tarhiyam caturthi?sampradanalaksaneyam caturtiti vyacaksmahe/katham sampradanasamja?”karma yam abhipretaiti sa sampradanam”iti curnikarena karmasabda ubhayatha varnyate-paribhasikam karma,laukikam ceti/tatra yada “karturipitatamam karma”iti paribhasikam karmasriyate,tada kartripsitatamena yam abhipreaiti sa sampradanasamjno bhavati-brahmanaya gam prayacchatity etat siddham bhavati/yada tu karma kriyeti laukikam karmaasriyate,tada kriyaya yam abhipraiti sa sampradanasamjna bhavatiti,tad,etat siddham bhavati-yuddhya sannahyati,patye seta iti/sannahanakriyaya yuddam abhipraiti karma,sayanakriyaya patim iti yuddhadinam sampradanasamjna siddha bhavati/tathehapi namaskarakriyaya sastram abhiprity acaryah,tasmac chastari sampradanasamjna/sampradanasamjnayam satyam “sampradane caturi’iti caturti bhavati/evam ca krtva-
“purvam pranamya vadatam pravaraya sastre”
“pramanabhutaya jagaddhitaisne pranamya sastre sugataya tayine”ity evamadini kavyasastrantaroktani sabdarupani sunititi bhaanti/
Yadi tarhi sampradanasamjaiveisyate,’namaskrtya munim murdhna’ity atra dvitiya na prapnoti?naisa dosah;vivaksatah karakani bhavanti/yada karmavivaksa tada dvitiya,yada sampradanavivaksa tada caturta-ity ubhyam api siddham bhavati/
(S;p.8,ll.3-26,U;p.6,l.16-p.7,l.12、サンスクリット原典ローマ字転写)
この部分のチベット語訳は省略されている。

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