「倶舎論」をめぐって

LXXXIX
『倶舎論』の構造等、自明なものだと思われているが、実は、そうでもないということが理解されると幸いである。もしやる気さえあれば、『倶舎論』チベット撰述注にある、今風にいえば「目次」即ち「内容科段」(sa bcad)を網羅して、一覧表にすれば、『倶舎論』の構造理解という面で、世界的業績となるであろう。まだ、誰も成し遂げてはいないのである。不思議なことに、『中論』にも、そのような網羅的な試みはなされていない。その点について、意識を持ってもらうために、『中論』について最近指摘されていることを補足しておこう。『正理大海』(正式タイトルは『中論頌 智慧という注釈 正理大海』dBu ma rtsa ba’i tshig le ‘ur byed pa shes rab bya ba’i rnam bshad Rigs pa’i rgya mtso)は以前使用したことがある。この文献に触れた研究としては、長尾雅人「中論の構造―宗喀巴『中論釈』を中心として」(『中観と唯識』1978所収)がその嚆矢であろう。その後、多くの研究で部分的には取り上げられている。2006年、全編に渡る英訳(Geshe Ngawang
Samten & J.L.Garfierd;Ocean of Reasoning on Nagarjuna’s Mulamadhyamakakarika,Oxford 2006)も出版された。講読したのは、24章であるが、それに関しては、安武智丸「ツオンカパの縁起観―中論釈『正理大海』24,9-40試訳」『仏教学セミナー』72,2000,pp.21-43がある。最新の研究には、桂紹隆「『中論頌』の構造」『印度学仏教学研究』61ー2,2013,pp.902-894があって、そこで今話題としていることの関わる指摘が見られる。桂氏の論文は、先の長尾論文を受け、『中論』の全体構成を論じたものである。桂氏は「中でも18章が「無我の真実義への悟入」としてツオンカパによって重視されるのは、現代の研究者の解釈と通じるものである。」(p.900)と述べ、ツオンカパの解釈を評価する。そして、『正理大海』の冒頭付近の記述に、『中論』各章に関するツオンカパ流の見方があると指摘している。先ず、その個所を訳し、ツオンカパ流『中論』解釈の要と24章の位置付けに触れておこう。ツオンカパは、こういう。
  そのように、〔存在の〕あり方(yin lugs)の意味(don,artha)を知るというのは、無知 (ma rig,avidya、無明)によって把握された通りの対象(yul,visaya)、それは存在しないのであると理解することであって、それはその対象が存在することを打ち砕き、更に、存在しないことを成就する論理による確定を通じて生ずるのだが、…それについても、最初に、人間の本質 が存在するという意識(gang zag gi bdag,pudgala-atman、人我)と自分のものであるという意識(我所)が、執着している無知(無明)の対象が存在しないのであると確定すべきだが、それはまた18章で示されているのである。…そのように、「諸存在には存在証明(自性)はない (chos rnams rang bzhin gyis stong,svabhava-sunya、諸法無自性)のならば、〔仏教で悟りにいたるために説いている〕4つの真理 (bden bzhi,catuhsatya、四聖諦)等〔の存在〕は不合理である」と説明する〔ことへの〕返答として、存在証明(自性)がない(rang bzhin gyis stong pa,svabhavasunya,自性空)場合に、〔四聖諦等を含む〕それらすべて〔の存在〕は合理的だが、〔諸存在の〕存在証明(自性)がある(mi stong ba,asunya,不空)のでは、不都合であると〔第24章〕「真理の考察」はお説きになり…
de ltar yin lugs kyi don rig pa ni ma rig pas ji ltar bzung ba’i yul de med par rtogs pa yin la/de ni yulde yod pa la gnod byed dang med pa’i sgrub byed kyi rigs pas gtan la phab pa las skye ba yin gyi/…de la ‘ang thog mar gang zag gi bdag dang bdag gi bar ‘dzin pa’i ma rig pa’i yul med par gtan la dbab dgos la de yang rab byed bco brgyad pas ston no//…de ltar chos rnams rang bzhin gyis stong na bden bzhi sogs mi ‘thad do zhes bcod pa’i lan du rang bzhin gyis stong ba la de dag thams cad ‘thad kyi mi stong ba la mi ‘thad do zhes bden brtag pa gsungs te…
(The Collected Works(gsun ‘bum)of Rje Tsokha-pa Blo-bzan-grags-pa,
New Delhi,1975,vol.23,Ba,20b/5-21b/6,folio,40/5-42/6,ツオンカパ全集は色々な版がある。これは、一般的にタシルンポ版といわれるものである、チベット原典ローマ字転写)
これで、ツオンカパの『中論』の捕らえ方、そして、第18章の位置づけ、第24章の意味合いは、一応把握出来たよう。ただし、ツオンカパの考えが、絶対的であったと断定するのは許されない。吉水千鶴子氏は、近年、中国から出版された初期チベットの文献群『カダム全集』において、チャンドラキールティ(Candrakirti)の中観思想導入時の『中論』注釈の校訂出版を行い、次のように述べている。
 彼(シャンタンサクパ)は、明らかに、第1章に力を入れているので、チベット中観史の最初期には、『プラサンナパダー』あるいは『中論』第1章が、既に、相当重要なものとして受け入れられていたと推測出来よう。(Yoshimizu Chizuko,Nemoto Hiroshi;Zhang Thang sag pa ‘Byung gnas ye shes dBu ma tshig gsal gyi ti ka,part I,Tokyo,2013,p.xviii)
これによれば、第1章が重要視されているのである。故に、ツオンカパ絶対視は、避けるべきである。


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