新チベット仏教史ー自己流ー

その7
 1つだけアティシャの思想的不透明さを示す例を、中観の分類に合わせてみておきましょう。アティシャの中観思想を大中観と呼ぶこともあります。望月海慧氏は、こう述べています。
 しかしながら、それ〔アティシャの唱えた「大中観」という考え〕は、中観思想の批判性を骨抜きにするものであり、中観思想のコンテキストで彼の著作が引用されることは極めて少ない。今回の事例では、彼は「大中観」という語を用いて瑜伽行唯識思想と中観思想という相対立する思想体系の融合を試みたものの、その思想は本来の思想体系が意図していたものとは異なるベクトルに進むことになったといえる。(望月海慧「中観と唯識を融合する「大中観」とは何か:仏教思想における相克と融和の一段面」『大崎学報』162,2006,pp.92-93,〔 〕内私)
大中観に対する批判は、他にもあります。袴(はかま)谷(や)憲(のり)昭(あき)氏は、以下のように指摘しています。
 「中観」を標榜しながら「世の大勢に最もよく順応」する「反動の哲学」はやはりありえたことは事実なのであって、これが端的に言えば、「大中観(dbu ma chen po)」と呼ばれるものの正体なのであり、この呼称を初めて用いた人こそアティーシャであり、そのことがチベットに禍(わざわい)を齎(もたら)らすことにもなったと考えるので…」(袴谷憲昭「チベットにお
けるインド仏教の継承」『岩浪講座 東洋思想 第一一巻 チベット仏教』1989、所
収、pp.131-132、ルビ私)
影響力のあった人物ですが、極めて捉えどころのない人というのがアティシャなのです。

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