「倶舎論」をめぐって

CXXIII
 以上、『倶舎論』関連の情報を、現段階で整理可能なものを提示してみた。特に、私の知識が不足している伝統的倶舎学に注意を傾けてみた。今回は、和書を取り上げていないので、伝統的な見方を、完全に把握しているわけではない。まして、普光や法宝の注釈に接していないのだから、甚だ、不完全である。我々としては、今後、更に、伝統的解釈を拾い上げることに努めるべきであるが、それと同時に、インド・チベットの注釈類にも目を配る必要がある。それに、インドの非仏教徒の著作も活用していかねばならない。そうすることで、ようやく、世親思想の把握が出来る。仏教論理学のディグナーガやダルマキールティのことは、その後になる。そこまで行くのには、まだ、相当な道のりがあるということである。
 更に、仏教論理学的観点を離れ、別な面から、『倶舎論』の重要性に触れておくべきであろう。これまでの説明を通じ、『倶舎論』が唯識との強固なつながりがあることはわかってもらえたはずである。仏教、特に大乗仏教と呼ばれるものには、もう1つ中観(Madhyamika)という学派がある。空や無自性を説くのが中観である。この学派は、竜樹(Nagarjuna,ナーガールジュナ)の『中論』(Madhyakika-karika)を源としている。この『中論』理解の鍵は、実は、アビダルマ、つまり、『倶舎論』が批判的に扱った教義を知ることなのである。

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