「倶舎論」をめぐって

LXXXVII
ここで、今まで見てきたインド・チベットの『倶舎論』を総括する意味で、アビダルマに対する評価を確認しておきたい。アビダルマが極めて哲学的な議論から成り立っていることは、納得してもらえるだろう。しかし、その精緻な議論は、はたして仏教、仏説と言えるのだろうか。この点については、近代西欧の学者によっても、全く異なる見解が提示された。まず、その様子を示しておこう。アビダルマ(abhidharma)とは、難解な仏教哲学のことである。仏教の重要な一面を占めていることに異論はなかろう。だが、最初期の仏教と比較する時、その評価は大きく分かれているのである。アビダルマ研究の大家、故櫻部建博士は、こう伝えている。
 〔ヨーロッパの著名な〕L・ド・ラ・ヴァレ・プサン〔Lois de la Vallee-Poussin,1869-1938〕のような学者は、…アビダルマ的傾向の濃い阿含経典を目して、原初の仏教の魅力あふれた教説の内容を、十全に、公平に、伝承したものではなくて、それを「哲学化」し、「阿毘達磨化」した、僧院の教科書用集成である、とする。。
このように、プサンは、アビダルマに対しては批判的な見方をしている。櫻部博士は、これに異を唱える別な有名学者の意見も示している。
 プサンの説は、しかし、スチェルバツキー〔Th.Scherbatstsky1866-1940〕の強い反駁を受けた…。プサンのように、初期の仏教が後期の「スコラ」仏教と相対立するかのように考えることは、アビダルマ仏教が、何か本質的に原初の仏教と異なっていた、とすることであるが、事実はそうではない。仏陀は決して形而上学的思弁に無縁の徒であったのではなく、その教義は看過すべからざる哲学的構造を有している。
このように、仏説に反するという見解と、仏説に一致するという見解が著名な学者により提示されたのである。これはあくまでも、近代の学者間の対立であるが、昔から、アビダルマへの評価は分かれていた。『倶舎論』の立場は微妙だが、世親は一応、アビダルマ川の立場を説明し、こう述べている。
 つまり、法(dharma,chos)の弁別(pravicaya,rab tu rnam par ‘byed擇)なくして、煩悩(klesa,nyong mongs、惑)を鎮める優秀なる手段(abhyupaya,thabs、勝方便,別方便)4)はない。そして、諸煩悩は、この輪廻(samsara,’khor ba,生死)と言う大海(aharnava, rgya mtsho chen po)に、世間の者(loka,’jig rten)を彷徨わせるのである。だから、その故に、その法の弁別のために5)、師ブッダによって、アビダルマは説かれたと伝えられるのである。なぜなら、アビダルマの説示なくして、弟子は法を弁別できないからである。
 それ(アビダルマ)は、しかし、世尊がバラバラに(prakirna, gsir bur)
説いたのである。尊者(bhadanta, btsun pa,大徳)6)カートゥヤーヤニープトラ(Katyayaniputra、Ka tya’i bu,迦多衍尼子)を始めとする者達に、まとめられ、整理された。上座6)(sthavira, btsun pa,大徳)法救(Dharmatrata,Chos skyob)がウダーナ部(Udanavargiya, Ched du brjod pa’i sde sde tshan, 鄔柁南頌, 憂陀那迦他部類)7)を作ったように、と毘婆沙師達8)は言う。
(サンスクリット原典)
 yato vina dharmapravicayena nasti klesopasamabhyupayah,klesac ca lokam bhramayati samsaram haryanave ‘smn atas tad vetos tasya dharmapravicayasyarthe sastra kila buddhenabhidarma uktah;na hi vina abhidhamopadesena sisyah sakto dharman pravicetum iti/sa tu prakirna ukto bhagavata,bhadantakatyayaniputraprabhrtibhih pindikrtya sthapitah sthaviradharmatratodanavargiyakaranavad
ity ahur vaibhasikah/( S:p.12,l.5-p.13,l.2,P:p.2,l.24-p.3,l.4,E:p.3,ll.9-14、ローマ字転写)
(チベット語訳)
gang gi phyir chos rab tu rnam par med par nyong mongs pa nye bar zhi bar bya ba’i ‘byed pa’i thabs med la/nyong mongs pa rnams kyis kyang ‘jig rten ‘khor ba’i rgya mtsho chen po ‘dir ‘khyams bar byed pa de’i phyir chos rnams rab tu rnam par ‘byed par ‘dod pa de’i don du ston pa sangs rgyas bcom ldan ‘das kyis chos mngon pa gsungs so lo/chos mngon pa bstan med par ni slob mas chos rab tu rnam par dbyed bar mi nus so// bye brag tu smra ba rnams na re de ni bcom ldan ‘das gsir bur bshad la/btsun pa ka tya’i bu la sogs pas bsdus nas bzhag ste/btsun pa chos skyob kyis ched du brjod pa’i sde sde tshan du byas pa bzhin no zhes zer ro//(北、No.5591,gu,29a/2-6、ローマ字転写)
(玄奘訳)
若離擇法無勝方便能滅諸惑。諸惑能令世間漂轉生死大海。因此傳佛説彼對法。欲令世間得擇法故。離説對法弟子不能於諸法相如理簡擇。然佛世尊處處散説阿毘達磨大徳迦多衍尼子等諸大聲聞結集安置。猶如大徳法救所集無常品等鄔柁南頌。毘婆沙師傳説如此。(平川、p.4,l.10-p.5,l.5)
(真諦訳)
若離擇法覺分無別方便能除滅諸惑。諸惑能輪轉世間於生死海。由此正因欲令弟子得簡擇法故大師佛世尊先説阿毘達磨。若離此正諸説、弟子不能如理簡擇眞法故、佛世尊處處散説此法、大徳迦多衍尼子等諸弟子、撰集安置、猶如大徳達磨多羅多撰集憂陀那迦他部類。聞毘婆沙師傳説如此。(平川、pp.4-5,上段)
この説明は、世親の真意を伝えたものかどうか危ぶまれる。彼は、アビダルマの忠実な継承者とは言えない姿も見せているからである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?