森鴎外と因明

その1
森鴎外と坪内逍遥との間で交わされた「没理想論争」は、明治の有名な文学論争である。その渦中で、鴎外は、因明という分野の仏教を利用した。因明とは、原語ではHetu-Vidya(ヘートゥ・ヴィドゥヤー)といい「論証の理由についての学問」という意味である。今日では、一般に「仏教論理学・認識論」等と呼ばれている。鴎外にとって因明とは、どのようなものであったのだろう。これについて、上田正行氏は、こう述べている。
 相手を論難して自説の正当性を主張するのに、うってつけの論争術であったのである。(上田正行「因明の論理―鴎外の戦術」『深井一郎教授退官記念論文集』1990,p179)
確かに、因明を形造っていったのは、論争術である。しかし、時代を経るにつれ、因明は、単なる論争術を超えて、認識論・論理学と呼ぶに相応しい学問に変貌していった。それに大いに貢献したのは、陳那(Dignaga、ディグナーガ)という4-5世紀頃のインド仏教徒であった。因明研究に大きな足跡を残した、戸崎宏正氏は、以下のように、点描している。
 陣那によって集大成された認識論・論理学の母胎は、古い問答法である。…それらに見られる問答法は、他者の教説を論破し、自派のそれの正しさを主張するためのものである。いわば問答形式の問題であって、宗教的思索とは直接関係しない。(戸崎宏正「仏教における現量(知覚)論の系譜」『理想 仏教の思想』1979 ,2,No.549,p.100)
さて、陳那の著作やそれを祖述する書は、古くから漢訳され、鴎外の時代、西洋論理学との対比という面で、取り沙汰されていた。(師茂樹「大西祝の因明理解」ネット上に公開されている。特にp.4の注7参照)鴎外は因明の論争術の面をクローズアップして、利用したが、それは陳那以降の因明書を使ったものであった。今日から見れば、インド因明史を無視して、都合のよい部分だけを利用した、と批判されても仕方がないだろう。鴎外当事の因明研究も黎明期であり、そこからの情報も、また、かなり妖しげなものではあった。そのような雰囲気の中で、鴎外が次のような態度を取ったのは、注目を引く。また、上田氏の論文を引こう。
 鴎外が逍遥に鋭く迫った第一点は、「現量」(感官智)「比量」(推理智)「聖教量」(聖典、古来の伝承、聖人のことば等による智)とある因明の三つの認識方法のうち、〔陳那が創始したとされる〕新因明では否定された聖教量に逍遥は立っているという非難である。(上田正行「因明の論理―鴎外の戦術」『深井一郎教授退官記念論文集』1990,p179、〔 〕内私の補足)
上田氏は、鴎外の「早稲田文学の没却理想」(明25・3)を引用して、鴎外の口吻を伝えている。以下に、それを孫引きさせてもらおう。
 逍遥子の時文評論は果たして絶対の地位(聖教量)にありて言ふか。さらば逍遥子は衆理想皆是なり、衆理想皆非なりといふことを得む。われは唯その一切世間の法に説き及ばざるを惜しむ。逍遥子の時文評論は果たして相対の地位(比量)にありて言ふか。さらば逍遥子は空間に禁しめられ、時間に縛られ、はては論理に窘められむ。(上田正行「因明の論理―鴎外の戦術」『深井一郎教授退官記念論文集』1990,p179より)

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