「倶舎論」をめぐって

LXXXII
これに対して、プールナヴァルダナは、別解釈を示し、以下のようにいう。
 〔『倶舎論』において〕「詳述・分類を以て」といわれたことについて、「詳述とは、分類のことである(rgyas pa nyid rab tu dbyed ba yin pa,vistara eva prabhedah)」〔という同格限定複合語的解釈〕が、「詳述・分類」なのである。詳述かつ分類が一体化(lhan cig)していることが、「詳述・分類を以て」なのである。
rgyas dang rab tu dbyed ba dang bcas pa zhes bya ba la/rgyas pa nyid rab tu dbyed ba yin pa ni rgyas par(read.pa) dang rab tu dbye ba ‘o//rgyas pa dang/rab tu dbyed ba dang lhan cig pa ni rgyas pa dang rab tu dbyed ba dang bcas pa ‘o//(北;No.5594,Ju,174b/5-6、サンスクリット原典ローマ字転写)
このように、複合語解釈は、注釈者達が妙を競う場なのであるが、残されたテキストが、チベット語訳だけのケースでは、なかなか、読解しづらいので、注意されたい。逸話として、仏教論理学の金字塔『普遍的流れという仏教哲学』The Buddhist Philosophy of Universal fluxを著した、ムケルジー(S.Mookerjii)の言葉を引用して、複合語に対する注意を喚起しておく。
 サンスクリット語の文を読む場合、〔ムケルジー〕先生は私に対して常に、バフヴリーヒ・コンパウンド(所有複合語)を的確に読みとるよう指導された。たとえば「メーダー(思慮)」という女性名詞が、「ドゥル・メーダハ」という男性名詞になって、「愚かな男」を意味する場合である。簡単そうであるが、実はそうではない。先生は、バフヴリーヒを読みとれるか否かでサンスクリット語の理解力が決まる、インド人学者にとってもそれ
が、困難である、とよくいわれた。(長崎法潤『インドのこころに学ぶ』2006,p.16)
ジャイナ研究で名高い、長崎法潤博士の、インド留学の思い出から、抜粋した。

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